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神宮(御正宮)
昨今、シナ・朝鮮の文明を真似たかのようなテレビ番組が多々見受けられます。
はたしてそうでしょうか?
わが国の文明はシナ文明から、文字(漢字)、宗教・思想(仏教・儒教・道教)、制度(律令)等を基本的な文化要素として取り入れましたが、しかし、我々の祖先は、自国に合わないものは、受け入れませんでした。科挙、宦官、族外婚、纏足(てんそく)、食人習慣、一夫多妻制、姓、冊封、天命思想、易姓革命などは受け入れていません。
しかも、日本にあってシナにないのが、仮名、幕府、武士、紋章、葬式、墓などです。命を繋ぐ料理も、日本料理はシナ料理とは関連性が薄く、日本料理の基本は縄文的といわれています。
このように、わが国の文明はシナ文明と明らかな違いを持っています。その違いは社会構造の違いにも顕著に現れています。この点でも、わが国の文明のシナ文明からの自立性が明白になります。社会構造の違いは、日本とシナが近代化する過程で顕著な違いとなって作用してきたのです。
わが国の文明とシナ文明の違いの一つは、国柄の相違にあります。このことは、江戸時代に強く自覚され、歴史の研究が進んだからです。「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問、国学が盛んになったからです。既に南北朝時代の北畠親房公は『神皇正統記』にわが国の国柄を「大日本は、国なり。天祖始めて基を開き、日長く統を伝へ給ふ。我国のみ此の事有り。異朝には其の類無し。此の故に国といふなり」と冒頭に記されています。水戸黄門で知られる徳川光圀公は、『大日本史』の編纂を推進し、シナとは異なる日本の国柄を明らかにしました。『大日本史』を大衆化した頼山陽の『日本外史』は、幕末のベストセラーとなり、多くの日本人に国柄の自覚を促したのです。
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吉田松陰先生
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
の辞世を残され、明治維新の精神的指導者・理論者として知られ、幕末にあって、日本とシナの国柄の違いを最も鮮やかに書き表しているのが、吉田松陰先生です。草莽(そうもう)の志士・松陰先生は、『講孟箚記(こうもうさっき)』に概ね次のように記されています。
「凡そ漢土の流儀は、天が人間をこの世に降したものの、その君となり師となる人物がなければ世の中が治まらぬので、必ず億兆の民衆のうちから傑出した人を選んで、これを指導することを命ずる。帝尭・帝舜や湯王・武王という人が、それである。
それ故に、その人物がその職責にふさわしくなく、民衆を治めることができない場合には、天もまた必ずこの人をその地位から引き下ろす。傑王・紂とか、周の幽王、王のごときがそれである。それ故に、天から民衆を指導せよと命ぜられた職責に基づいて、天が引き降ろしたものを討つのであるから、『放伐』ということに何の疑問をも抱かぬのである。
わが国は、これと全く違っている。天照大神の御子孫が天地とともに永遠にましますのであって、この大八洲、すなわち日本の国土は大神が開かれたところ、大神の御子孫、すなわち天皇が末永く守られるものである」。
松陰先生が記され、わが国では、天皇陛下は天照大神の子孫であると信じられてきました。そのことが君主であるための根本条件であり、すなわち「血統」です。天皇陛下が君主となるために「徳」は必ずしも必要ではなく、この点がシナと全く異なるのです。
天皇とは、大和言葉の「すめらぎ、すめらみこと」に当てた漢字です。天皇は古来、現人神(あらひとがみ)または現御神(あきつみかみ)とされ、その権威は侵し難いものとして仰がれてきました。その神聖な御稜威(みいつ)は、血統に基づきます。また、践祚(せんそ)にあたっては「三種の神器」すなわち鏡・剣・勾玉が皇位の象徴として継承されます。
皇位の世襲は、重要な儀式を伴います。天皇陛下が即位するに当たっては、大嘗祭(おにえまつり、だいじょうさい)が行われます。この祭儀は、皇祖神・天照大神の霊力が天皇に受け継がれるという儀式です。そして、大嘗祭を全うすることによって、はじめて天皇陛下は天皇にふさわしい霊力を得るとされます。
わが国にはこのように、シナとは異なる伝統があります。天皇は徳の有無にかかわらず、君主として敬われ、崇められます。そして、臣下は天皇陛下に対して絶対に「忠」を尽くすという関係にあります。この君民の根本的な関係に立ちながら、天皇陛下は君主としての徳を持てるように努めます。
皆さんご存知のように、初代・神武天皇は国民を「おおみたから」と呼ばれ、宝物のように大切されました。神武天皇以後の天皇陛下は「民の父母」として、国民のために仁政が行われるよう尽力されたのです。「仁」とは儒教の中心的な徳目であり、「慈しみ」や「思いやり」を意味しますが、日本の歴代天皇陛下は、シナの皇帝と違い、この仁徳を実践されてきたのです。だからこそ、古代から今日まで、我々の祖先の深い信頼と敬愛を得て、125代もの長きにわたって、皇統が維持・継承されているのです。ここにシナと異なるわが国の国柄が表れています。この国柄の特徴に日本文明の独自性・自立性が明瞭に発揮されています。
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福澤諭吉翁
日本で初めて、近代西洋的な文明論を書いたのは、福沢諭吉翁ですが、翁はこうしたわが国の国柄を踏まえて、文明を論じられました。
わが国は、明治の初め、近代西洋文明の挑戦に対し、どう応戦するかが課題でした。『学問のすすめ』で福沢翁は、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると説かれました。「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と。また、『文明論之概略』では、この国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。「一身独立して一国独立する」と福澤翁は説かれました。
独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、持ち得るものであり、福沢翁自身、強い愛国心を抱き、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う日本人でした。福沢の認識は次のようなものです。
「日本にては開闢(かいびゃく)の初より國體を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶(たえ)たることなし。ただ政統に至(いたり)てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」
つまり、わが国は国の初めから、國體、国柄の根本が変わることがなかった。天皇陛下の系統も連続して絶えることがなく、為政者、政権はしばしば変わったが、國體が失われることはありませんでした。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福沢翁は自らの歴史観を述べられています。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、国民の常識でもありました。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福沢翁の文明論の骨格となっています。
しかし、大東亜戦争後、67年の歳月が過ぎ、幕末・明治の日本人の認識、気概、矜持も薄れゆく今日、御国の存続の危機さえ叫ばれています。
日本文明とシナ文明の違いの重要点は、国柄の違いにあります。そして、この違いの認識は、西洋文明に対しても通用し、自らの国の国柄の特長の自覚こそ、独立心、愛国心の発露となり、文明の独立・維持・発展の力となるのです。
日本人よ誇りを持とう・・・・
続く・・・・