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奴隷制度を憎んだ日本人

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日本人は昔から非人道的な奴隷制度を憎んだ。

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 カール・ツンベルク、日本語表記ではツンベリーといわれています。スウェーデンの植物学者で医学者でもあります。1771年オランダ東インド会社に入社し、ケープタウン、セイロン、ジャワを経て、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任。翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし徳川家治に謁見しました。ツンベリーは、わずかな江戸滞在期間中に、吉雄耕牛、桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導しました。1776年、在日1年で出島を去り帰国し、1781年、ウプサラ大学の学長に就任しました。

 ツンベリーの逸話に日本人から冷たい視線を受けたというのがあります。ツンベリーはオランダ人として来日しているので、日本人にはオランダ人だと思われていました。オランダは奴隷貿易をしており、日本人はそれを蔑んでいたのです。有色人種が白人を蔑視するなど想像もしていなかった彼は随分戸惑ったようです。ツンベリーの著書にも次のような記載があります。

「日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている」

 日本は明治維新以降、人種平等を掲げていましたが、江戸時代からも人種差別を嫌っていたことがわかります。幕末の頃はポルトガル人も日本に来ると見下されるのでわけがわからなかったといいます。幕末の書には「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生だ、人の道に反している」と書かれているそうで、攘夷論とあいまって白人の行いを憎んでいたのでしょう。

 明治5年(1872年)、上海からシナ人を船に乗せてアメリカ大陸で奴隷として売り飛ばすペルー船籍のマリア・ルス号が修理のために横須賀港に入港したとき、脱走したシナ人がイギリス軍艦に助けを求めました。イギリス在日公使からの要請をうけ、副島種臣外務卿(外務大臣)はシナ人救助を命じています。ペルー側は怒りましたが、ロシア皇帝が仲裁裁判を行い、日本側が勝訴しています。(マリア・ルス号事件)

 日本の歴史の中で国家的に奴隷制度を敷いたというようなことは見当たらず、シナの魏志倭人伝に日本人が奴隷を連れてきたと書かれていますが、シナの史書はそもそも政治のために「造る」ものですから怪しい。日本の人種平等的、人道的な考え方は2000年の歴史によって醸造されたものでしょう。

 大正8年(1919年)のベルサイユ条約で日本は「人種平等案」を提出しました。この提案は17票中11票の賛成を得ましたが、アメリカ大統領のウィルソンとオーストラリアが組んで潰されました。ウィルソンは議長であり、全会一致を主張して不採択としたのです。

 豪ヒューズ首相
「日本の提案の真意は、移民に関する諸問題を国際連盟の支配下に置かんとするものにして、斯くの如きは国家の威厳を害し、主権を毀損せしむるものなり」

 日本は伝統的な考えに基づき人種平等を提唱したわけですが、日本の台頭は奴隷制度によって国家を成り立たせている白人にとって危険な存在となっていました。大東亜戦争はこのとき既に始まっていたと言えるかもしれません。


参考文献
PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
PHP「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人・高山正之(共著)
徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
平凡社「江戸参府随行記」C.P.ツュンベリー(著) / 高橋文(訳)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)


参考サイト
WikiPedia「カール・ツンベルク」

添付画像
奴隷船 1869年のもの(PD)

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