三輪山(大神神社HPより)
古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。
先日本ブログでご紹介させていただいた、神社のお話(九)大神神社の抜粋です。
人は死ぬと山に留まる
日本人の他界感には、天上他界、海上他界、山上他界などが混在しています。
多くの日本人の葬送習俗を主を為しているのは、山上他界が日本人の他界感の中心であると思います。
「日本古代の神祇と道教」などで知られる歴史学者の、故下出積興博士は、クニ(地方)の成立を語る中で、日本人の霊魂感に触れて、人は死ぬとその魂は親しい故郷を見下ろす裏山にしばらく留まり、その裏山からはその地方を代表する秀麗な山が見え、やがて弔い上げが終われば祖霊はその秀麗な山に移っていきますが、必要に応じて裏山に戻り、子孫の生活を見守ることもできる。そのような祖霊の交通をネットする中心的な山が一つ日本のクニ(地方)にはあり、祖霊の寄り集う地理的範囲として成立したと述べられています。
筆者の住居に近い兵庫県福崎町に生まれ、民俗学生みの親とされる故柳田国男氏の墓は丘の上にあり、下界を見下ろす素晴らしい場所に建っています。
自らの祖霊感を実践されたと言えましょう。柳田氏の娘婿で民族学者の故堀一郎氏は「大台ケ原に灰を撒いて欲しい」と遺言を残されました。
堀氏は大台ケ原を祖霊が集まるとされる三重県の出身でした。
山の神の去来伝承
春にご馳走を携えて山に入り、一日山遊びをする習俗を今でも行なっている地方があります。
大和には、ダケヤマ(岳山)と呼ばれ、特別の信仰を集めている山が存在します。
代表的なダケとして、北葛城郡の二上山があります。この山には四月二十三日にダケノボリの習俗があり、「ダケの水でご飯を食べる村」と言われ、「岳の郷」六十数ヶ村の村人が二上山に登る。
吉野郡竜門岳、高見山、山辺郡のホタテ山、その他多くのダケがあり、何れもご馳走を食べた後、つつじの花を手折ってきて、苗代の水口に立てて田の神様を迎え、水口祭を行います。
大和地方のダケは大小あっても、集落の裏山であり、生活を潤す水、稲作の水を配分する山であり、祖霊の留まる山でもあるのです。
拙ブログ「神社のお話(一)」でも述べていますが、春の稲作の始まりにあわせて、山の神は里に降りてこられ、田の神となり、稲作の成長を見守られ、収穫が終わると山に帰られるという山の神の去来伝承は、全国各地に存在しています。
最後は神となる
長野県下伊那郡阿南町新野に今も残る、古い形の盆踊りがあります。
先祖を招き、先祖と共に三日間踊り明かすお祭りです。踊り台には注連縄が張られ、踊りはじめには台の下で神事が行われます。最終日の夜半すぎには、各家では送り火を焚いて先祖の霊を送り返します。新仏と無縁仏が踊り場に残り、この瞬間から朝大火を焚いて踊神を送り返すまで人々はたたり伝承を聞かされ踊ります。送り終わった後決して振り返ってはならないと言われています。
亡くなってからまもない人は「ほとけ」と呼ばれます。三十三年、地方によっては五十年の弔い上げを済ませると「神」になります。「ほとけ」は人の個性が残っており、供養の仕方が悪かったり、死者を蔑ろにする不注意が子孫にあると祟りを為すと言われてきました。
子孫を温かく包む神
死の清まる期間を得て、「ほとけ」から「かみ」となります。祖霊として一括される神性になると、神は無条件に子孫を包み込む神となります。
稲魂(いなだま)を育て、水を配り子孫の生活を見守る祖霊の場所が山だったのです。
日本人にとって山は死や誕生に関わる重要なものであったのです。
日本の旧国名をヤマト(山処カ)と呼んだのは大きな文化的意義が存在しているのです。
江戸時代の伊勢豊受大神宮の祠官、中西直方の詠歌集「死道百首」のなかに、
「日ノ本(ひのもと)に生まれ出でしに益人(ますひと)は神より出でて神に入るなり」と述べています。
そこには祖先の神から出たものは、祖先の神に帰っていくという死生観が語られており、日本人の生命は祖先から自分、そして子孫へと永久に血と心の連続性を形成していくものであり、神葬祭の祝詞(のりと)にも
「天翔(あまがけ)り、国翔(くにがけ)りして見そなはしませ」とあるように、亡き魂が常に現世の我々を見守っています。
先人は、祖先の魂に恥じぬ行いをと身を律してきました。
現世の我々には、それが欠けているように思えてなりません。
もうすぐお正月です。民族が大移動します。
故郷に帰られたら、故郷の山々を仰ぎ見ていただきたい。きっと祖霊の息吹を感じるでありましょう。
※参考文献 「神葬祭大辞典」加藤隆久篇
「古代の日本」下出積興著
「柳田国男の先祖感」神社新報
古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。
日本神話にも記載され、大和朝廷の設立当初から存在し、「日本最古の神社」と呼ばれる歴史、由緒ある神社です。
神社の中で最も重要な「本殿」を持たず、背後の三輪山そのものを御神体としており、神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とされています。
神奈備とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や山(霊峰富士)をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智の滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいいます。
先日本ブログでご紹介させていただいた、神社のお話(九)大神神社の抜粋です。
人は死ぬと山に留まる
日本人の他界感には、天上他界、海上他界、山上他界などが混在しています。
多くの日本人の葬送習俗を主を為しているのは、山上他界が日本人の他界感の中心であると思います。
「日本古代の神祇と道教」などで知られる歴史学者の、故下出積興博士は、クニ(地方)の成立を語る中で、日本人の霊魂感に触れて、人は死ぬとその魂は親しい故郷を見下ろす裏山にしばらく留まり、その裏山からはその地方を代表する秀麗な山が見え、やがて弔い上げが終われば祖霊はその秀麗な山に移っていきますが、必要に応じて裏山に戻り、子孫の生活を見守ることもできる。そのような祖霊の交通をネットする中心的な山が一つ日本のクニ(地方)にはあり、祖霊の寄り集う地理的範囲として成立したと述べられています。
筆者の住居に近い兵庫県福崎町に生まれ、民俗学生みの親とされる故柳田国男氏の墓は丘の上にあり、下界を見下ろす素晴らしい場所に建っています。
自らの祖霊感を実践されたと言えましょう。柳田氏の娘婿で民族学者の故堀一郎氏は「大台ケ原に灰を撒いて欲しい」と遺言を残されました。
堀氏は大台ケ原を祖霊が集まるとされる三重県の出身でした。
山の神の去来伝承
春にご馳走を携えて山に入り、一日山遊びをする習俗を今でも行なっている地方があります。
大和には、ダケヤマ(岳山)と呼ばれ、特別の信仰を集めている山が存在します。
代表的なダケとして、北葛城郡の二上山があります。この山には四月二十三日にダケノボリの習俗があり、「ダケの水でご飯を食べる村」と言われ、「岳の郷」六十数ヶ村の村人が二上山に登る。
吉野郡竜門岳、高見山、山辺郡のホタテ山、その他多くのダケがあり、何れもご馳走を食べた後、つつじの花を手折ってきて、苗代の水口に立てて田の神様を迎え、水口祭を行います。
大和地方のダケは大小あっても、集落の裏山であり、生活を潤す水、稲作の水を配分する山であり、祖霊の留まる山でもあるのです。
拙ブログ「神社のお話(一)」でも述べていますが、春の稲作の始まりにあわせて、山の神は里に降りてこられ、田の神となり、稲作の成長を見守られ、収穫が終わると山に帰られるという山の神の去来伝承は、全国各地に存在しています。
山におられた田の神さまが 春が訪れあたたかになる頃になると山から里の降りてきて桜の木のてっぺんにお座りになられます。
そして・・・「さぁ~~里の民たちよ 稲作の準備をするのじゃ」 と民たちに
お知らせするために桜を咲かせられるとも言われています。
さくら の 「さ」は 稲 「くら」 は 神座(かみくら)のくら で神さまがお座りになるところで、「さくら」 は田の神さまが宿る木と言われ、日本人が太古より桜を愛でた淵源とも言われています。
山の神、すなわち祖霊であるといえましょう。最後は神となる
長野県下伊那郡阿南町新野に今も残る、古い形の盆踊りがあります。
先祖を招き、先祖と共に三日間踊り明かすお祭りです。踊り台には注連縄が張られ、踊りはじめには台の下で神事が行われます。最終日の夜半すぎには、各家では送り火を焚いて先祖の霊を送り返します。新仏と無縁仏が踊り場に残り、この瞬間から朝大火を焚いて踊神を送り返すまで人々はたたり伝承を聞かされ踊ります。送り終わった後決して振り返ってはならないと言われています。
亡くなってからまもない人は「ほとけ」と呼ばれます。三十三年、地方によっては五十年の弔い上げを済ませると「神」になります。「ほとけ」は人の個性が残っており、供養の仕方が悪かったり、死者を蔑ろにする不注意が子孫にあると祟りを為すと言われてきました。
子孫を温かく包む神
死の清まる期間を得て、「ほとけ」から「かみ」となります。祖霊として一括される神性になると、神は無条件に子孫を包み込む神となります。
稲魂(いなだま)を育て、水を配り子孫の生活を見守る祖霊の場所が山だったのです。
日本人にとって山は死や誕生に関わる重要なものであったのです。
日本の旧国名をヤマト(山処カ)と呼んだのは大きな文化的意義が存在しているのです。
江戸時代の伊勢豊受大神宮の祠官、中西直方の詠歌集「死道百首」のなかに、
「日ノ本(ひのもと)に生まれ出でしに益人(ますひと)は神より出でて神に入るなり」と述べています。
そこには祖先の神から出たものは、祖先の神に帰っていくという死生観が語られており、日本人の生命は祖先から自分、そして子孫へと永久に血と心の連続性を形成していくものであり、神葬祭の祝詞(のりと)にも
「天翔(あまがけ)り、国翔(くにがけ)りして見そなはしませ」とあるように、亡き魂が常に現世の我々を見守っています。
先人は、祖先の魂に恥じぬ行いをと身を律してきました。
現世の我々には、それが欠けているように思えてなりません。
もうすぐお正月です。民族が大移動します。
故郷に帰られたら、故郷の山々を仰ぎ見ていただきたい。きっと祖霊の息吹を感じるでありましょう。
※参考文献 「神葬祭大辞典」加藤隆久篇
「古代の日本」下出積興著
「柳田国男の先祖感」神社新報