名君忠真公(めいくんただざねこう)
小田原藩栢山(かやま)の農民である二宮金次郎が服部家の財政を建て直そうと努めていて、そしてそれがうまくいったらしいということが評判になりました。いくら取り繕(つくろ)っていても服部家の生活が苦しいということは、武士仲間にもわかっていました。すると、その服部家が急にけちになりました。
「いよいよ服部さまもつぶれるのか」などとうわさしていたのです。ところが五年たってみると服部家は借金を返し終って、十郎兵衛はじめ家のものたちは晴ればれとした顔をしています。
金次郎を称(たた)える声は使用人たちからも伝わっていき、金次郎の名前は殿さまである大久保忠真の耳にまで達したのでした。.
小田原藩主大久保忠真は、善い政治をして人々の生活を安んじたいと思っていました。しかし藩の財源である年貢米は酒匂川のはんらんなどで思うように集まりません。藩の財政もまた火の車でした。
そんな時二宮金次郎の話をきいて、忠真は、『この男だ。この二宮金次郎をとりたてて藩の財政を担当させよう』と考えました。ところが、それを伝え聞いた藩士たちは一斉に反対しました。江戸時代というのは武士がいばっている時代でしたから、百姓である金次郎を迎えいれ、その下で働くということは、とても我慢できないことだったのです。
忠真はみなの反対を無視するわけにもいかず、小田原藩の財政を担当させることはあきらめました。
『しかし惜しい。あれだけの人物をそのままにしておくのはなんとしても惜しい……。そうだ。今まで誰にもできなかった難しい仕事を二宮がやりとげれば、もう誰も二宮を重く用いることに不平を言うまい。二宮ならあの桜町領をきっと復興してくれるだろう』
忠真は、今まで幾度も人を送り大金をつぎこんでもうまくいかなかった桜町領の復興を、金次郎に頼もうと思いました。驚いたのは金次郎です。
「とんでもないことでございます。そのような大事、わたくしにできるはずがありません」
桜町御領の荒れはてていること、今まで有能な役人が何人出かけていっても、どうすることもできない土地であるということはきいていました。
野州桜町、そこは小田原から遠くはなれた下野国(今の栃木県)芳賀郡の物井村、横田村、東沼村三村の総称です。ここの領主宇津釩之助(うつはんのすけ)は小田原藩の分家で、四千石の旗本でした。四千石といっても、この桜町は土地がやせていて、千俵ほどの年貢米しか入りません。それなのに宇津家の生活ぶりがぜいたくなので、年貢のとり立ては厳しくなります。人々は疲れ、心はすさみ、村は荒れはてていました。
当主の釩之助は、本家の大久保家に身を寄せる始末です。
そんな遠い大変なところへどうして行けましょう。せっかく再興したこの栢山の家はどうなるのでしょう。弟の友吉は他家へ養子に行き、今は、妻のなみと長男。弥太郎の三人で暮らしている金次郎でした。
「二宮ならやれる。桜町領民のため、そして小田原藩のためだ」
金次郎をみこんだ忠真(ただざね)はあきらめません
つづく
財団法人新教育者連盟 「二宮金次郎」より