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いわゆる70年安保をめぐる騒乱の中で、昭和45年11月25日、三島烈士は、自衛隊市谷駐屯地において、自衛隊員に憲法改正を目指す決起を呼びかけて失敗、割腹自殺されました。
辞世は、
「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」
「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
自決事件の4ヶ月ほど前、三島烈士は、次のような感懐を記されました。
「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことが出来ない。このまま行ったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに強くする。日本はなくなって、そのかわりに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色な、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るであろう…」と・・・
また、前年10月の講演で、次のように語られています。
「この安保問題が一応片がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかという鋭い問いかけが出てくると思うんです。そのときはいわゆる国家超克という思想も出てくるでありましょうし、アナーキストも出てくるでありましょうし、我々は日本人じゃないんだという人も出てくるでありましょう。……そのときに向かって私は自分の文学を用意し、あるいは行動を用意する。そういうことしか自分に出来ないんだ。これを覚悟にしたい、そう思っているわけであります」
これらの発言は、今日の日本について、予言的な響きがするほどに、深い洞察を示されたものだと思います。
今日わが国は、大きな危機にあります。かって昭和40年代にも、我国は存亡の危機に直面していました。左翼の革命運動が高揚して国内が騒然とし、これに呼応して共産主義国が侵略してくる恐れがあったのです。今日の日本と酷似しています。当時、日本を守るために行動された人々の一人が、自決した作家であり、憂国の士三島烈士です。
三島烈士は、70年安保を目前にした昭和44年、『文化防衛論』を発表され、日本の「文化」を護ることを提唱されました。その主張に入る前に、ひとつ考えておきたいことがあります。
それは日本の何かを「護る」というときに、私たちは、何を護るべきであるかということです。
まず「国土」や「国民の生命と財産」、あるいは「主権と独立」を護ることが考えられます。しかし、日本がシナのように共産主義国となっても、国土は国土であり、国民の生命や主権等を守ることは、変わりがありません。また、「自由・平等・民主・人権」などの価値を護ることは、どの民主主義国でも言っており、わが国では民主党・共産党までが主張しています。
しかし、これらを守るというだけでは、日本を守ることにはならないのです。
日本を護るとは、その中に、わが国に古来伝わる独自の国柄を守るということがあることに思い至り、これを伝統的な言葉でいえば、「國體」を護るということです。「國體」とは、簡単に言えば、日本の歴史・文化・伝統に基く、天皇陛下を中心とした国柄だと言えましょう。そこには、自ずと「日本の心」が表れています。
三島烈士が日本の「文化」を護ると言う時には、日本の国柄に表れた精神文化という意味がありますので、前置きとします。
昭和40年代、世界は共産主義の嵐に見舞われていました。我国もまた、共産主義の革命運動が高揚し、大きく揺れ動きました。三島烈士は、この危機において、共産主義に反対し、日本の国柄を護ることを提唱されたのです。著書『文化防衛論』で三島烈士は、次のように述べられています。
「なぜわれわれは共産主義に反対するのか? 第一にそれは、われわれの國體、すなわち文化・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからであり、しかも天皇はわれわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである。…」
三島烈士は、さらに独自の考察を進められています。同じ時期に出された書物から三島烈士の言葉を引用します。
「…どうしても最終的に守るものは何かというと、天皇の問題。それでもまだあぶない。カンボジアみたいに王制でだね、共産主義という国もあるんだからね。いまの共産党は『天皇制打倒』を引っ込めて十年経つが、ひょっとすると天皇制下の共産主義を考えているんじゃないかと思う。これでもまだまだだめだ。天皇を守ってもまだあぶない。そうすると何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ、本質的な問題は」
このような考察に基づかれ、三島烈士は、わが国独自の国柄、つまり國體を護るために、日本の「文化」を護ることを提唱されました。筆者は、重要な着眼だと思います。
國體とは、単に国家の通時的な構造をいうのではなく、文化の社会組織的な表現でもあり、文化とは心の表れですから、日本の文化とは、日本人の精神の表れです。ですから、「文化」を守るとは、日本の精神を守ることです。それは個々人にとっては自分の精神を、自分自身を守ることでもあります。つまり、これは日本人のアイデンティティに関わる根本です。
三島烈士は、こうした課題を自己の問題として取り組むことを、同時代、そして将来の日本人に呼びかけられたものと、筆者は推察します。
「文化」を護れ、という三島烈士の提唱は、一般的な伝統文化・民族文化の保存を説くものではなく、國體を守り、天皇陛下を護ることを訴えるものです。三島烈士の個性的な天皇論・文化論による主張です。
三島烈士は著書『文化防衛論」で、「政治概念としての天皇」に対する「文化概念としての天皇」という天皇像を提起しました。三島烈士は、天皇の本質とは、政治的な権力者ではなく、「文化共同体の象徴」「文化の全体性の統括者」であると考えました。そして三島烈士は、明治国家が創り出した天皇像を、西欧近代の国家原理の影響を受けて政治権力と結びつけられたものとして、拒否されています。そして、「歴史的な古い文化概念としての天皇」の復活を希求されたのです。そして次のように述べられています。
「われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本の文化伝統を賭けて闘わなければならないと信じている…」
こうした主張は、三島烈士独自の文化論に則ったものです。三島烈士は皇室を中心とした古代の王朝文化に、日本文化の最も重要な源を見ます。
「日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発している。そして、時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立せしめたが、この独創的な新生の文化を生む母胎こそ、高度で月並みな、みやびの文化であり、文化の反独創性の極、古典主義の極致の秘庫が天皇なのであった。…
文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、ついに『みやび』の中に包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、というのが、日本の文化史の大綱である」
そして、三島烈士は次のように述べられています。
「天皇を否定すれば、我々の文化の全体性を映す鏡がなくなるだろう。天皇は最終的に破壊されれば、我々の文化のアイデンティティはなくなるだろう」
さわり程度の紹介でありますが、三島烈士はこのような天皇論・文化論を展開して、「文化」の防衛を訴えられたのです。「文化」を護ることなくしては、國體、天皇陛下を護ることはできず、日本を護ることはできないと考えられたのです。それは、昭和40年代、日本共産化の危機が迫る状況の中で、突き詰められていった鋭い考察でした。
三島烈士の行動と死に対する評価は、さまざまです。筆者は、三島烈士が昭和40年代の日本の国難において、いかにして日本を護るかを考えられ、発言・行動されたことを賞賛したい。
惜しまれるのは、国家社会のために生き抜き、尽くす道を選んだならば、もっと有意義な行動をなし得たに違いないと筆者は思います。その点は残念ですが、三島烈士が「文化」を護ることを提唱された言葉の中には、日本人が避けることのできない重要な問題が多く語られていると思います。
最後に、三島烈士は東京生まれですが、本籍地は兵庫県印南郡志方村上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)です。
偉大な憂国の士が、筆者の生まれ故郷の隣町との縁(えにし)があることを誇りに思います。
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