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日本が降伏しないよう細工をしたトルーマン。
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昭和20年(1945年)4月12日、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトが死去。あとを継いだのはハリー・S・トルーマンでした。彼はミズーリの田舎町の雑貨屋、しかも倒産して店じまいした雑貨屋の小者と陰口を叩かれていました。トルーマンがそんな陰口は知らなかったにしても大学を出ていないこと、大統領になったのは偶然であり、第二次世界大戦ではなんの功もない。対内的にも対外的にも劣等感が拭えませんでした。そんな彼の手の中に転がり込んできたカード、それは「原子爆弾」でした。
昭和20年(1945年)7月16日、ポツダムの会談に臨んでいたトルーマンはニューメキシコにおいてプルトニウム型の原子爆弾実験に成功したとの報告を受けます。ソ連参戦がなければ対日戦争の早期完全勝利を望めないと考えていたルーズベルト大統領はヤルタ密約でソ連の参戦を認めていましたが、トルーマンは原爆を使ってアメリカ優位の対日政策、その後の世界勢力図でソ連、イギリスに対して優位になれると考えていました。
トルーマンはスターリンからソ連の参戦は8月15日と聞き出していました。ソ連が参戦したら日本は降伏してしまいますが、原子爆弾は8月1日に使用の準備が整いますから間に合います。しかし、日本がポツダム宣言を受諾すると使用の機会が失われます。そこでポツダム宣言の陸軍長官スティムソンの原案から天皇の地位保全の条項を削って、日本がポツダム宣言をすぐには受け入れないように細工しました。
7月25日、原爆投下命令発令(ポツダム宣言より前に決定していたということ)
7月26日、トルーマンはソ連をはずして「ポツダム宣言」を発表。
7月28日、日本政府は事態を静観し、対応を明確化せず、ソ連仲介の希望を捨てずに鈴木首相は「重視する要なきものと思う」(鈴木の回想)と発言します。しかし、新聞には「政府は黙殺」(ignore)と載り、これが連合国にreject(拒否)とされてしまいます。
8月6日 広島に原子爆弾投下。
8月9日 ソ連は当初、8月15日に参戦することにしていましたが、日本が降伏する前に大急ぎで参戦。
さて日本、9日、ソ連参戦を受けて最高戦争指導会議が開かれました。鈴木貫太郎首相は冒頭でいきなりこう述べます。
「かかる情勢下においては、もはや戦争の継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾するにあたって、みなさんのご意見をたまわりたい」」
徹底抗戦を主張していた阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は機先を制され、ポツダム宣言受諾を前提に日本側がつける希望条件についての討議に入ります。
阿南惟幾陸軍大臣は改めて徹底抗戦論を展開。
「武装解除の後では連合国側に向かって『それでは約束が違う』と抗議しても、もうどうにもならない。イタリアの先例もあり、轍を踏んではならない。もちろん原子爆弾、ソ連参戦となった今、ソロバンずくでは勝ち目はない。しかし、大和民族の名誉のため戦い続けているうちには、何らかのチャンスがある」
阿南惟幾陸軍大臣が辞職して後任を出さなければ内閣は総辞職になり、直接軍政によって本土決戦になるところでした。しかし、鈴木首相は憲法でいう大元帥による講和大権を行使し、統帥権を制約する手段に打ってでました。天皇陛下に聖断を求めたのです。阿南惟幾陸相は徹底抗戦を主張していたにも関わらず、素直にこれに従います。実は鈴木貫太郎と阿南惟幾は鈴木が侍従長時代に阿南は侍従武官を4年勤めており、以心伝心の仲でした。阿南惟幾は強硬派を装い、鈴木貫太郎の意を汲んでいたのでした。
参考文献
幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子(編)
草思社文庫「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(著)
PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
添付画像
トルーマン(PD)
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