日本軍はソ連機械化部隊を撃破。そしてソ連の大反撃が始まった。
昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。日本軍はソ連の機械化部隊に全く歯が立たなかったというのは真っ赤な嘘であり、ソ連戦車、装甲車を破壊しまくりました。史上初の戦車による夜襲を行い、ソ連に大打撃を与え、運動性能に優れた九七式戦闘機はソ連機を圧倒しました。
ソ連は日本・満州に一撃を与え、安全を確保し、東欧ポーランドに攻め込む予定でしたから、予想外に強い日本軍に顔色を失い、焦ります。日本に潜入していたゾルゲ諜報団は関東軍が8月24日に総攻撃に出るという情報を掴みモスクワに知らせ、「日本軍の先手をとり、あとくされのないよう徹底的に叩くべき」と進言しました。そしてソ連軍は8月20日に大攻勢に出ることになります。
ソ連軍ジューコフ司令官は大攻勢をかけるための補給に苦心します。鉄道の最寄り駅ボルジャからノモンハンまで650キロもある未舗装道路しかなく、地形的条件でいえば日本軍より3倍は困難でした。日本側もソ連の輸送能力から考えて1個師団ぐらいの展開しかできないと考えていました。ジューコフ司令官はソ連国内からトラックをかき集め、大輸送を展開し、日本側に見破られないよう盛んに航空作戦を展開し、偽装電波を流します。輸送には荷馬車まで使われたのではないかと言われています。そして日本側をはるかに上回る大兵力と物資を集結させました。関東軍参謀の辻政信中佐は「まさかあのような大兵力を外蒙の草原に展開できるとは夢にも思わなかった」と回想しています。
8月20日、ソ連軍は3方面から作戦を展開します。北方面フイ高地の井置支隊は奮戦するものの、22日に突破され、ソ連軍はノモンハーニー・ブルドー・オボーへ進出。日本軍は包囲されます。正面、南側ともに激しい砲撃を受け、歩兵71連隊、72連隊が壊滅。野戦重砲第一連隊も背後から攻撃を受け陣地が蹂躙されました。ノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊も全滅しました。
ソ連軍は戦い方を変えてきており、火炎瓶攻撃にやられないよう戦車のエンジン部分にネットをはったり、速射砲にやられないよう、1000メートル地点から射撃し、戦車の後ろに狙撃兵を配置し、肉薄する日本兵を狙撃しました。そして歩兵攻撃と連携して前進してくるようになりました。
3倍の敵を相手に、それでも日本将兵は奮戦しました。絶望的な状況下でも敢闘精神を失わない日本将兵との戦いはソ連兵にとっては悪夢そのものでした。しかし、日本将兵も心理面で崩れて、退却してしまう前線もあり、師団司令部へ40名ほどの将兵がなだれを打って退却する場面がありました。
退却してきた将校「(辻)参謀殿!右第一線は全滅しました」
辻参謀「何ッ。お前達が生きているじゃないか。何が全滅かッ。旅団長や連隊長や軍旗をほったらかして、それでも日本の軍人かッ」
辻参謀はこの後、旅団救出に向かいます。27日夜、第二十三師団小松原中将は自ら手兵を率いて、バルシャガル高地、ハイラスティン河両岸で陣地を固守している歩兵砲兵部隊の救出を企図しました。
小松原師団長訓示
「師団はこれら(前線)の部隊と連絡し、もって防衛組織を確立せんとす。その任務は重大にして困難なり。ただ全隊一つになり、決死の精神をもってこれを達成すべし。予も死を覚悟す。諸子も予と同心となり、崇高なる犠牲精神に依りこの任務を完うすべし」
師団本部は二日二晩陣地に拠って奮戦し、30日夜、最後の突撃を準備中「突破帰還すべし」の軍命令を受領。師団長自ら先頭に立ち、軍刀を抜き5回の突撃により敵の重囲を突破し帰還しました。第二十三師団の生き残りの将兵は将軍廟に集結。師団は戦力を消耗し尽くしましが、今度は第七師団、第二師団、第四師団、第一師団による日本軍大攻勢が予定されました。ところが、これは突然中止となったのです。そして後世、第二十三師団の損耗だけつままれ、ソ連が大量の戦車、装甲車を出動させていたことから、「機械化部隊に歯が立たず惨敗」という東京裁判史観にもとずく神話が作られました。
参考文献
歴史街道2011.5「日本軍の敢闘とソ連の謀略・・・それは歴史の一大分岐点だった」中西輝政
有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
毎日ワンズ「ノモンハン秘史」辻政信(著)
産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
添付画像
小松原師団長と小林歩兵団長、中は田中直一副官、ノロ高地にて 「ノモンハン事件の真相と戦果」より