当時、戦車による夜襲は考えられなかった。
昭和14年(1939年)5月、日満軍(日本、満州)とソ蒙軍(ソ連、外モンゴル)が満州国ノモンハーニー・ブルドー・オボー周辺で激突。ノモンハン事件が勃発しました。
関東軍所属第一戦車団の戦車第三、第四連隊は6月20日、ノモンハン地区への出動命令を受領しました。そして安岡正臣中将を隊長とし、歩兵、砲兵を加えた安岡支隊を編成します。
7月2日、攻撃開始。安岡支隊はバルシャガル高地南西のホルステン河とハルハ河の合流地点「川又」地区へ向けて攻勢をかけます。吉丸清武大佐率いる戦車第三連隊はハルハ河に沿って進み、玉田美郎大佐率いる戦車第四連隊は右翼で肩を並べて進撃。しかし、歩兵は既に灼熱の中、長距離行軍した疲れもあり、戦車との共同攻撃に追随できず、戦線後方に取り残されがちでした。また、ソ連軍のハルハ河西岸の銃砲や前進方向の野砲、対戦車砲を浴びせられ次第に前進が困難となりました。
玉田連隊長は戦局打破のためには戦車第四連隊による夜襲しかないと考えました。
「連隊長としては、夜襲しようと考えるが、各人の意見はどうか」
当然、すべての中隊長の反対にあいました。戦車というのは視界が悪く、夜に走らせて攻撃するのは無謀であり、しかも地理、地形がよくわかっていない場所です。夜襲の研究も訓練も行っていないし、連隊で夜襲かけるなど前例もありませんでした。しかし、玉田連隊長は強い決意で夜襲を敢行します。
前進開始から30分すると激しい雷雨が周辺地帯を襲いました。この雨が戦車のエンジンの音をかきけしました。雨はちょうど戦車隊がソ連軍の前哨陣地に到着したあたりでやみました。稲妻に照らし出された日本戦車にソ連兵は驚愕しました。日本軍九五式軽戦車は車載機銃や37ミリ戦車砲を撃ちまくり、停車していたトラックや陣地に張られていた天幕を次々炎上させ、多くの火砲をキャタピラで踏みにじりました。救援にかけつけたソ連BT戦車やBA-6装甲車を集中砲火で撃破しました。大成功です。
玉田連隊長
「敵はわが猛撃に周章狼狽して射撃もできず、肉薄攻撃してくるものも一人もいない。わが戦車は敵を追いまわし、射撃し蹂躙した。逃げ遅れて壕あるいは砲下のしたに隠れる者は機関銃、拳銃をもって射殺した。戦車をもって砲架に乗り上げ、または体当たりで砲をひっくりかえし、あるいは縦横無尽に暴れまわり、対しては至近弾をぶっ放すので敵はたちまち敗退し暗中に逃れ去った」
残念ながら戦車隊は歩兵を伴っていなかったため、陣地確保はできず、その後の戦果拡大にはつながりませんでしたが、ソ連側に大打撃を与えました。
俗説ではノモンハン事件で日本戦車はソ連戦車にかなわなかった、日本戦車隊は敗退した、と言われてきましたが、全くのウソです。日本戦車は小隊ごとのフォーメーションをとった連携ぶりが際立ち、相互に火力支援を行うことによりソ連装甲車両や対戦車砲を討ち取っていました。非常に高い水準の練度を有していたのです。
この後、関東軍は戦車隊が消耗すると今後、戦車部隊を育てる芽を失うと懸念したため7月中旬ごろ戦車隊を戦線から引き揚げさせます。このことも戦後のウソ作りに使われたようです。
参考文献
有明書院「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共(著)
産経新聞出版「ノモンハンの真実」古是三春(著)
歴史街道2011.5「世界初、雷雨を衝く夜襲!敵戦線を崩壊させた戦車第四連隊の奇策」古是三春
添付画像
ハルハ河地区で休息中の戦車第三連隊 歴史街道2011.05