富士山本宮浅間大社
「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」
と万葉の歌人高橋蟲麻呂(たかはし の むしまろ)は清らかで気高く美しい富士山を詠んでいます。
霊峰富士と呼ばれていますが、富士山本宮浅間大社は富士山を御神体としています。
と万葉の歌人高橋蟲麻呂(たかはし の むしまろ)は清らかで気高く美しい富士山を詠んでいます。
霊峰富士と呼ばれていますが、富士山本宮浅間大社は富士山を御神体としています。
神体(しんたい)とは神道で神が宿るとされるもので、礼拝の対象となるものをいいます。本ブログ神社のお話(九)でも述べさせていただきました、我国最古の大神神社(おおみわじんじゃ)では三輪山が神体とされ、皇大神宮では三種の神器の1つの八咫鏡とされるなど様々です。
神社の中で最も重要な「本殿」を持たず、背後の山そのものを御神体としており、神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とされています。
神奈備とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や山(霊峰富士)をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智の滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいいます。
(霊峰富士)
富士山の名前は古代からいろいろな表現がなされています。一般的なのが「不二山」。他に比べようがない唯一無二の高峰という意味。
「不尽山」は、余りの大きさを“尽きることなき”と表現しました。万葉集の山部赤人の歌「田子の浦ゆ、うち出でて見れば真白にぞ、不尽の高嶺に雪はふりける」で有名です。
万葉集ではこのほか、「布士」「布自」の文字が使われていますが、「ふじ」と呼ばれていたことだけは事実のようです。
「不死山」は竹取物語のように、不老不死の伝説からも由来し、「福寿山」というめでたい名前がなまったという説、「富慈山」からきた説など、いずれもあて字のように思われます。
「富士山」という今日の書き方は、士に富む山という意味で、武士道が発達する鎌倉時代以降のものとみられています。
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮です。前述していますが、富士山を御神体としています。主祭神として鎮まりますのは浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)、夫神の天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、父神の大山津見命(おおやまつみのみこと)を配祀まします。
富士山本宮浅間大社由緒によると、木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神とされています。
木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。
社伝によると、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し国中が荒れ果てました。その後、11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが浅間大社の始まりと伝えられています。
当初は特定の場所で祀られていたのではなく、その時々に場所を定めて祭祀が行われていたが、景行天皇の御代に現在地の北東6kmの場所の山宮に磐境が設けられた。伝承では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったときに、浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀られました。
現在の地にお鎮まりなられたのは、大同元年坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。(社伝より)
またこの水源は灌漑としても用いられ、水徳や農業の神としての祭礼が行われてきました。それが現在も行われる御田植祭です。
山宮鎮座
平安以降は、源頼朝が行った富士の巻狩りの際、武将を率いて浅間大社に詣き、流鏑馬を行った。このことから浅間大社では現在でも毎年流鏑馬祭りが行われている。公家や武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進や後奈良天皇の奉納の他、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われました。
鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営、南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や寄進などが行われた。その後武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行い、豊臣秀吉も社領を寄進し、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営しました。
鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営、南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や寄進などが行われた。その後武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行い、豊臣秀吉も社領を寄進し、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営しました。
富士山頂 浅間大社奥宮
噴火を繰り返す富士山を、鎮め奉る浅間大神への敬慕の念によって信仰され、その頂きは浅間大神の御神域として尊ばれてきました。富士山の噴火が収まるに従い、その敬慕の念が富士登山という形に変化していきました。
富士曼荼羅図(重要文化財)
末代上人が、浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士登山信仰の素地となったと思われます。大日寺は程なく頽廃しましたが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになると、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、崇敬されるようになりました。江戸時代中期、関東を中心に広がり、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。
前述のように、富士登山が盛んになったのは江戸時代に「富士講」が広まってからです。講ですから、何年も登山資金を積み立てて、やがて自分の順番がまわってくると先達に従って登りました。平均寿命が今より短かった当時、一生に一度か滅多に登れませんからそれこそ一歩一歩大切に登ったそうです。当時女性はまだ登ることが禁止されていましたが、60年に一度の庚申の年だけ四合目までの登山が許されました。女性が自由に登れるようになったのは明治に入ってからのことです。
山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という神事が行われていました。
浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事です。
この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされています。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
人間は、神代の昔から変わることなく、自然の恵みを受けて生活しています。森羅万象、見えないものまで、自然は子々孫々に受け継がなければならない人類共有の財産です。太陽・空気・水、どれが欠けても人間は生きていけません。これらすべてのものを、当然あるものと考えていないでしょうか。自然は人間が創り出したものではなく、一度無くしてしまったら取り返しがつきません。古代の日本人は、自然を崇敬し護るべきものと知っていました。失ってしまったらら元に戻せないと知っていたからです。古代人に習い、自然への感謝と畏怖の気持ちを忘れてはな らないでしょう。
先人、先祖の叡智とともに・・・