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日本がインドネシア作戦を展開した時に宣伝班が4班編成され、昭和17年3月にジャワ島に渡った。この時、町田敬二中佐を班長として私設副班長として参加したのが山形庄内出身の金子智一である。
宣伝班の彼らがインドネシアに上陸して驚いたのは日本軍将兵がインドネシア人に熱狂的に迎えられていたことである。
特に日本軍は教育に力を入れていた。インドネシア独立のために「義勇軍(PETA)」をつくって厳しく指導し、オランダが350年で数千人のインドネシア人しか教育してこなかったのが、日本軍は3年間で10万人に教育を施した。これが後のインドネシア独立に役立つことになる。
どこの小学校にも日本人の先生がいたが、それは日本軍の兵隊であった。サンバス将軍はじめインドネシア人は「日本の先生はみんな親切だった」と言う。
昭和18年、金子はバンドンに「作戦記念館」を設立してインドネシア独立のために活躍していた。そして、終戦となると英国軍が進駐してきた。バンドンには民族独立に燃えるインドネシア軍が抗戦した。
昭和21年1月5日夜、英国軍から金子に出頭命令が来た。容疑は「インドネシア独立運動を助けたことがポツダム宣言違反に当たる」というものだった。
翌日出頭するとそのまま逮捕された。ジャカルタに連行されコタのグルドッグ刑務所に入る。ここには日本人600人、インドネシア人1400人がいた。金子は独房に入れられた。板敷のベット、穴を掘っただけのトイレだった。
1週間後に取り調べが始まると、取調官は「独立に協力したね」と訊くので「しました」と答えた。
「どういう協力をしたのか」と言うので「答える前に訊きたい。インドはかつてどこのものだったか?インドネシアは誰のものだったのか?」と逆に質問すると英国人のブラウン中尉は「私の質問だけに答えればいい」と怒鳴った。
金子は屈することなく静かに「質問にはお答えします。その前に私の質問に答えて頂きたい」と言った。これは手強いと思ったのは、その日はそれで終わった。
翌日、前日と同じ質問をしてきた。すると金子も同じ逆質問をした。ブラウン中尉は前日よりさらに大きな声で怒鳴った。そのまま進展せずに夜になって終わった。
その日、独房に戻ると金子は鉄格子を掴んで空を見上げるとインドネシア国歌を歌った。するとそれを聴いたインドネシアの囚人が一緒に歌い出し、次々と囚人達が歌い出した。
スコットランド出身の看守が飛んできて「やめろ!」と怒鳴った。しかし誰も言うことを聞かず、最後まで大合唱した。
すると今度はインドネシアの囚人が日本語で「愛国の花」を歌い始めた。日本兵が望郷の思いに堪えきれず歌っていたのをインドネシア人が自然と覚えたものだった。獄中は日本人とインドネシア人の大合唱となった。
「ましろき富士の気高さを 心の強い楯として 御国に尽くす女等は 輝く御代の山ざくら 地に咲き匂う国の花・・・ 老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅 か弱い力よく協わせ 銃後に励む凛々しさは ゆかしく匂う国の花」。
金子は泣いた。
金子がインドネシア独立に貢献したことは計り知れない。
それをお互いに民族の垣根を越えて心のつながりを歌で表す。日本が侵略国家であればこういうことは起こらない。なぜならインドネシア人はオランダの歌は歌わない。
金子は昭和22年2月に復員し、祖国日本の再建に余生をかけ、平成14年12月24日に亡くなられた。
戦後日本はこういう一国の独立に貢献した立派な日本人に光を当てないが、私は絶対に消してはいけないことだと思う。
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