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6年後にオリンピックを控えた昭和33年、東京で第三回アジア競技大会が開催されようとしていた。
この競技会はプレオリンピックと言うべきもので、東京オリンピックの成功を占う重要な大会であった。大会のセレモニーの主役は「聖火台」である。
当初、「聖火台」の制作は国が大手に指示していたが、つくれる職人がいなかったため、国は「鋳物の町」である埼玉県川口市に依頼すると川口市長はこれを引き受けた。
しかし、さすがの川口市でもそれをつくる職人はいなかったが、川口市は鋳物師の名人であった鈴木万之助とその息子・文吾に相談した。
納期が3か月ということで「うちでは出来ません」と断っていたが、68歳の父・万之助が「何を断っているんだ。これは私の最後の仕事としてやります」と受けてしまった。
他の鋳物屋は「そんなのできるわけない」と言っていた。
仕事に取り掛かって2ヶ月、最後の工程に入った。鋳型に溶かした鉄を流す「湯入れ」である。しかし溶けた鉄が鋳型から吹き出して作業は失敗。
作業は一からやり直さなければならなくなった。期限はあと1カ月。万之助は呆然と立ち尽くし、老齢で限界も来ていた。万之助はついに倒れてしまい、その一週間後に亡くなった。
文吾は悲しみの涙をぬぐいながらも、一心不乱に手を休めることなく作業し続けた。
そして二度目の「湯入れ」が行われた。今度は見事に成功した。「聖火台」は納期に間に合い、工場の人と市長もバンザイした。
文吾は「親父、できたよ」って言うと、涙がどっと流れた。・・・
小さな町工場に、国の威信と未来をかけた親子の壮絶な姿。国家の未来を背負う日本人としての誇りをかけた仕事であった。
昭和39年、東京オリンピックで聖火台に火がつけられると文吾は、またも涙涙だった。
オリンピックが終わって、文吾が聖火台を見に行くと焼けて傷んでいた。文吾は競技場に「これじゃ聖火台がかわいそうだ」と言って、聖火台を磨いた。
その後も毎年10月10日頃になるとごま油とバケツを持って旧国立競技場に出かけ、奥さんと二人で聖火台を磨き続けた。鋳物の維持にはごま油で磨くのが最適だという。
文吾は50年間続けてきたが、平成20年に86歳で他界した。しかしその後も弟・昭重氏が遺志を継いで聖火台を磨き続けた。
それを知った室伏広治選手が「私にも磨かせて下さい」と名乗りを上げてきた。それから室伏選手も毎年秋になると聖火台を磨きに来るようになった。
「新しい競技場ができるのはもちろん楽しみだが、東京五輪のレガシー(遺産)は守っていきたい。日本人はモノを大切にする国民性なので、その精神を大切にし、未来に引き継いでいきたい。鈴木さん親子の思いと五輪の精神が凝縮された聖火台を、ぜひ新しい競技場に残して使ってほしい」(室伏広治)
室伏広治選手と被災地の子供達
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