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[転載]東京新聞「日本人は歴史の愚を学べ」

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シナ共産党の思惑通りの集会

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盧溝橋事件80年 歴史に「愚」を学ぶとき
北京郊外で旧日本軍に銃弾が撃ち込まれた盧溝橋事件から八十年になる。これが八年間に及ぶ日中戦争の発端になった。止められた戦争と歴史は教える。
(中略)
首相の近衛文麿は不拡大方針だった。かつ現地で停戦協定が成立したにもかかわらず、華北への派兵が決定し、戦争拡大へと歯車は動きだした
 
盧溝橋事件は幾重にも謎に包まれている。それなのに戦争を始める。「愚」である。不要な戦争であった
 
日中戦争は華北での戦闘ばかりか、上海での戦闘もはじまり、日本からは派兵に次ぐ、派兵…。全面戦争に陥った。泥沼の戦争と化していったのである。
 
そもそも戦争の公式目的が「中国を懲らしめるため」である。そんな荒っぽい理屈が当時の国際社会に受け入れられるはずもない。戦争の名目さえ立たなかったのも「愚」である。
 
むろん途中で幾度か和平の道も探られた。しかし、そのたびに日本は相手に厳しい要求をするため、和平はとても成立しなかった寛容さがあれば、戦争を止めることもできた。和平を台無しにした「愚」もあるのだ。
 
戦争の歴史は私たちに示唆に富んだ教訓を与える。戦後七十二年になる今、平和主義の道を進んできた日本が「戦争のできる国」へと変質しつつある
 
こういう時こそ、歴史の「愚」を学ぶときであろうと思う。
2017.7.8 東京新聞)
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まず、歴史上には「日中戦争」という言葉はない。この言葉は戦後、左翼歴史家が作った言葉で、当時は「支那事変」と呼んでいた。ここから東京新聞の歴史認識は失格である。
 
「現地で停戦協定が成立したにもかかわらず、華北への派兵が決定し、戦争拡大へと歯車は動きだした」(東京新聞)
 
ものごとには必ず理由がある。日本が派兵した理由を書かずに「日本は派兵させたため戦争拡大となった」と書くのは意図的すぎる。
 
満州事変の停戦協定である「塘沽停戦協定」からしばらくは平静であったが、昭和10年に日本人に対する殺人事件など反日事件が50件ほど起きた。
 
現地の日本人居留民が不安になると、日本軍は国民党に「華北を安定しなければ軍が実力で治安を担当する」と通告した。治安を安定させるのは当事国の務めだ。しかし国民党政府はそれをしなかったために、日本人の生命・財産を守るために派兵したのだ。
 
 
「盧溝橋事件は幾重にも謎に包まれている。それなのに戦争を始める。「愚」である。不要な戦争であった」(東京新聞)
 
人民解放軍の兵士用教科書『戦士政治課本』に「盧溝橋事変は劉少奇の指揮する学生が起こした」と、シナ共産党が戦争に導いたと書いてある。
 
支那派遣軍情報部北平支部長の秋富重次郎大佐は「盧溝橋事件直後の深夜、北京大学構内の通信所から、延安の共産党軍司令部に緊急無線で、成功した、と三回連続反復送信していたのを傍受した」と証言している。
 
さらには1949年、中華人民共和国の樹立宣言で「我々共産党軍が日本軍と蒋介石軍の両軍に鉄砲を撃ち込み、日華協定を妨げたことが共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と盧溝橋事件はシナ共産党が仕掛けたと自ら述べているのだ。
 
 
「戦争の公式目的が「中国を懲らしめるため」である。そんな荒っぽい理屈が当時の国際社会に受け入れられるはずもない」(東京新聞)
 
これも、当時の日本の感情を無視した解釈だ。東京新聞は歴史をきちんと調べもせずに思い込みだけで書いているのか?
 
シナを懲らしめるとなったのは、729日に260人の日本人女性や子供が凌辱され惨殺された「通州事件」が起きて、日本国民の怒りと屈辱で「支那を懲らしめよ」となったのだ。
 
これを指令したのが日支全面衝突させたかったコミンテルンであり、工作したのはシナ共産党北方局の劉少奇の部下の黎巨峰王自悟であることがシナで明らかにされている。
 
東京新聞は「コミンテルン」と「通州事件」を書かずに「荒っぽい理屈」と書くのはあまりにもお粗末ではないか。
 
 
「和平はとても成立しなかった。寛容さがあれば、戦争を止めることもできた。和平を台無しにした「愚」もあるのだ」(東京新聞)
 
この和平を妨害していたのもコミンテルンだ。理由は「第七回コミンテルン会議」にある通り、日支の戦いを長引かせて日本軍の体力を消耗させようとしていたからだ。
 
この時、蒋介石に和平をさせないようにしていたのが黒田善治である。日本人が蒋介石に指導、工作していたのだ。
 
 
「こういう時こそ、歴史の「愚」を学ぶとき」(東京新聞)
 
今まで指摘してきた通り、歴史をきちんと学ぼうともせずに、戦前の日本がやってきたことは全て「愚」と決めつける東京新聞。よくもこんな幼稚な記事を書けたものだ。
 
 
戦後言われている歴史は嘘が多い。真実の歴史は以下の通りである。・・・
 
日本軍は上海事変から南京、徐州、漢口と攻め入って、支那民衆を苦しめたように教えられているが、全く違う。
 
上海も南京も徐州も日本軍が国民党軍を追い出したことにより治安がよくなり、支那民衆から大変感謝されていたのだ。
 
日本軍が蒋介石国民党を追い出したことで、国民党に深い恨みのある支那民衆は「和平救国、反蒋大会」を上海、南京、杭州、九江など各地で開催し、支那民衆は「親日」を要望し、「日の丸」「五色旗」(満州の旗)を掲げて「打倒蒋介石」の声を高らかに上げて、反蒋デモが行われた(下画像)。

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広東では支那人が「日の丸」を背中に、襟に「親日突撃隊」と書いた法被(下画像)を着て、東亜新秩序を集会を行っていた。これは日本軍が来たことで治安が回復した感謝の祝賀であった。

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支那民衆を苦しめたのは「蒋介石国民党」や虐殺と粛清を繰り返していた「毛沢東共産党」であった。これを戦後は「日本軍」にすり替えてきたのだ。
 
当時の支那人はみんなそれを知っていた。
 
水間政憲著『一目で分かる日中戦争時代の武士道精神』にはこう書かれている。
1990年頃、上海出身の知人が教えてくれた言葉の意味が全て理解できました。それは筆者が「日本を批判している中国から、なぜ留学してきたのか」との質問に「お母さんは上海に日本軍が来てから治安が回復し、夕方でも外で遊べるようになった。日本軍は信頼されていた」と語った。

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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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