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三浦虎次郎は最後に副長に言う、「定遠は、まだ沈みませんか」
「勇敢なる水兵」という唱歌は私の好きな唱歌のひとつです。
昔の唱歌というのはなぜか魂を揺さぶるものが多いものです。それは歴史の事実を歌にした先人たちの魂の叫びを聞くような気がするからです。・・・
明治8年12月、佐賀県にて三浦虎次郎は産まれました。虎次郎は生まれつき体が大きく、腕っぷしも強く、負けん気が人一倍強く、村では餓鬼大将として「鬼虎」の愛称で呼ばれていました。しかも友情に厚く同僚や部下を可愛がり、強い者には立向うが弱い者を助けるという義侠心にも富んでいました。
明治25年、虎次郎はわずか17歳で海軍に志願し、佐世保海兵団に入団したが、間もなく日清戦争が勃発し、彼は旗艦「松島」に乗り込んだが、・・・。
明治25年、虎次郎はわずか17歳で海軍に志願し、佐世保海兵団に入団したが、間もなく日清戦争が勃発し、彼は旗艦「松島」に乗り込んだが、・・・。
明治19年、長崎に清国の「定遠(ていえん)」「鎮遠(ちんえん)」などの北洋艦隊やって来て、いきなり上陸してきた500人の清国水兵たちが日本人に暴行するなど危害を加えました。世に言う長崎事件です。
その時、日本政府は満足な抗議もせず、何の手段も講じませんでした。これに日本国民の世論は憤りとなってくるのです。
しかし、日本の国民は清国の主力艦「定遠」「鎮遠」をやっつけるほどの戦闘艦を日本が持っていないことをよく知っていました。
その口惜しさを込めた当時の大流行した唄が「欣舞節」です。
この唄には「恨みかさなるチャンチャン坊主」という言葉が出てきます。また「ちゃんころ」という言い方もあります。これは支那をバカにする言葉として知られていますが、元々は支那への日本人の劣等感から出来た言葉です。大国清国に怯える当時の日本国民の姿が唄われています。
ちなみに朝鮮人は「チョン」と言っていました。
「バカでもチョンでもできる」という言い方をしますが、このチョンとは朝鮮人のことです。
朝鮮で東学党の乱が起こると、清国は「属邦である朝鮮を保護する」と言って、5000名の兵を朝鮮に送り込みました。
それを聞いた日本政府は「朝鮮を属邦とは許せない」と反論し、天津条約により兵を送り込みました。
日本は朝鮮に関して清国との間ではもはや軍事力によるしかないと、今までの経緯からそう考えていました。清国からすると日本など少し脅せばビビって撤退するだろう程度にしか考えていませんでした。また、当時の世界の目は清国が有利であるというのが常識でした。
ロシアやイギリスの公使たちからは日本政府に、清国ともう一度話し合いをしてみてはどうかと打診してきました。列強というのはこのように干渉して恩を売り恩恵に預かろうとしていました。
「清国と一戦も辞せず」
ついに日本政府は最後の決断を下しました。
この日清戦争で一大決戦と言えば陸の「平壌の戦い」と海の「黄海の海戦」ですが、三浦虎次郎の話は「黄海の海戦」という日・清の主力艦隊による海戦で起きたのです。
日・清の艦隊の隻数はほぼ同じです。
しかし清国の「定遠」「鎮遠」の30センチ主砲4門の威力と装甲の分厚さは、日本艦隊では全く及びません。日本の「松島」「橋立」「厳島」には32センチ口径砲1門が装備されていましたが、砲身が重すぎて旋回、照準が不安定で実戦では命中ゼロでした。
しかし、その不利を補ったのは「吉野」などの巡洋艦の高速と、15と12センチ速射砲の発射速度と精度が勝っていることでカバーしました。
「吉野」は最高24ノットであり当時としては世界一のスピードであると言われていました。
「定遠」「鎮遠」の撃沈は難しいが、日本はそのすばしこさと精度で戦うことになりました。
「日本艦隊が終始一貫、整然たる単縦陣を守り、快速力を利して自己の有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に価する。清国艦隊はいきおい守勢に立ち、混乱した陣型のまま応戦するだけであった」
これはこの海戦を目の当たりにした米国海軍少佐が報告書に書いたものです。
しかし、「鎮遠」の巨弾が「松島」に命中すると、一気に96名の死傷者を出しました。
それでも日本艦隊は陣型を乱すことなく、清国艦隊に近づきながら集中火を浴びせ、そして離れ、
を繰り返しました。そして、清国艦隊は次々撃沈され、「定遠」に命中した砲弾は159発、「鎮遠」には220発も命中しました。
「清国に定遠と鎮遠のある限り日本は危ない」、これが当時の日本国民が持っていた共通の認識でした。もちろん日本軍の一兵卒までそのことはわかっています。
そして、日本の「松島」は敵弾が中甲板に当たり、積んであった弾丸などが爆破し、無数の破片が上甲板に飛んできました。
その破片に腹をえぐられて三浦虎次郎三等水兵はその場に倒れていました。
そこに向山慎吾副長が通りかかります。
目も鼻も腫れあがった顔をした三浦水兵は副長を見上げ、
「副長」、と苦しそうにと叫びました。
そしてこう言います。
「定遠は、まだ沈みませんか」
副長は大声で、
「大丈夫、大丈夫。定遠はもう撃てないほどやっつけた。これから鎮遠をやるのだ」と言いました。
三浦水兵は安心して微笑み、
「どうか、この仇(かたき)を討って下さい。天皇陛下万歳!」
と言って、そのまま息を引き取りました。
三浦虎次郎 19歳。
当時、清国兵は訓練もろくにされていない弱兵でした。
それに比べて日本軍は上から下までよく訓練されており、しかも士気が高く、日本の置かれている状況をきちんと理解していました。
この黄海の海戦で日本は完勝し、国じゅうが大勝利に湧きかえり、多くの軒々には日の丸がはためいていました。
その後、この三浦虎次郎を題材とした唱歌「勇敢なる水兵」は多くの子供達に歌われ、虎次郎の勇気に感動しました。また、多くの国民もこの勇気を長く胸にしるしてきました。
三浦水兵には次のような話が残っています。
佐世保から清国との海戦の出撃直前に慰問に来た三浦水兵の両親が郷土の人々から贈られた餞別を渡そうとすると、三浦水兵はその好意に感謝をしながらも父の手を制して、
「私は今日までご迷惑のかけ続けで、ただの一度も両親たちを喜ばせたことがありません。
この度、君国の大事にあたり、近い内に出征できることを無上の光栄と思っています」
と、懐から財布を取り出し、
「このお金は私が貯えたものです。が、戦地では必要ありません。ほんの僅かですがお父さんのタバコ代にでもして下さい。それから、私への餞別は出征できないで海兵団に残る同僚が沢山いますので、彼らにあげて下さい。私は一文もいりません」
昭和4年、三浦虎次郎の35回忌に顕彰碑が作られました。戦後、これをGHQによって壊すように強要されましたが、拒み続け、ついに碑文だけ削ることになりました。その後、佐賀県知事や地元有志が浄財を集めて記念碑が修復され、昭和36年に三浦虎次郎の慰霊祭が行われ、遺族が感謝し、感激にむせんだのです。
一
煙も見えず雲も無く 風も起こらず波立たず
鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に
二
空に知られぬ「いかずち」か 波にきらめく「いなづま」か
煙は空を立ちこめて 天津(あまつ)日影も色くらし
三
戦い今やかたけなわに 務め尽せる丈夫の
尊き血もて甲板は から紅に飾られつ
四
弾丸の砕片(くだけ)の飛び散りて 数多(あまた)の傷を身に負えど
その玉の緒を勇気もて つなぎ止めたる水兵は
五
副艦長の過ぎゆくを 痛むまなこに見とめけむ
苦しき声をはりあげて 彼は叫びぬ「副長よ」
六
呼び止められし副長は 彼のかたへにたたずめり
声をしぼりて彼は問う 「まだ沈まずや定遠は」
七
副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく
「心やすかれ定遠は 戦い難くなしはてき」
八
聞きえし彼は嬉しげに 最後の微笑をもらしつつ
「いかで仇を討ちてよ」と 言う程もなく息絶えぬ
九
皇国につくす皇軍の 向う所に敵もなく
日の大御旗うらうらと 東の洋をてらすなり
十
「まだ沈まずや定遠は」 この言の葉は短きも
皇国(みくに)を思う国民(くにたみ)の 胸にぞ長くしるされん
・・・・・・・
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