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日本の国柄を「日の丸弁当」に例えることがある。
中心にある梅干が「天皇陛下」で、ご飯粒一粒一粒が「国民」である。天皇陛下(梅干し)と国民(ご飯粒)は固く結びついていて、これを「君臣一体」という。
この「中心」という言葉を一文字で書くと「忠」となる。
「忠」とは「私」を捨てて「公」に尽くすことを言い、日本人はこれを「奉公」と呼んできた。
東日本大震災後、皇居の勤労奉仕に出かけた若者達が皇居内で天皇陛下の御会釈を受けた。その中に宮城県出身者が一人いた。
すると陛下はその若者に歩み寄られ、被災地の復興について優しく尋ねられ、励まされた。その若者は泣き崩れ、周りの者も全員泣いた・・・
この勤労奉仕の始まりはいつの頃か。
昭和20年11月、宮城県栗原郡の鈴木徳一さんと長谷川峻(たかし)さんが、遠く宮内省にやって来てこのように言った。
「皇居前広場が戦災のため荒廃して見る影もないので、清掃させて頂きたい」。
宮内省は快諾すると、二人は宮城県の青年達60名と「みくに奉仕団」と名乗って上京してきた。作業は大東亜戦争開戦の日である12月8日から始めた。
坂下門の警官は皇居前広場を清掃している彼らを見て「何をしているのか?」と言った。
彼らはこう言った。「天子様のお住まいの庭が荒れていると聞いて、みんなで清掃をしようと決めました。しかし今時お手伝いをしたらマッカーサーは我々を検挙するかもしれない。だから念のために第二陣は郷里に残し、県知事その他に迷惑がかかっていけないと思って黙って上京してきました。ここにいる数名の女子の中には死を覚悟して水杯をして出て来たのもいます」。
彼らのあまりの誠実さを見て木下道雄侍従次長はこう言った。
「二重橋前もそうだが、皇居内も荒れ放題である。せっかく遠路を来てくれたのだから皇居の中も片づけてくれないか」。
皇居の中に入れて頂けることに感激した彼らは「喜んで奉仕させて頂きます」と言った。
数日間の青年達の一心不乱の奉仕ぶりが両陛下の耳に入り、陛下は「一同に会いたい」とのお言葉がありました。青年達は驚いた。
陛下は奉仕の労をねぎらわれ「郷里の農作はどうか。肥料の配給はどうか。地下足袋の配給はあるのか」などと次々質問されました。
そして、陛下がお帰りの時、奉仕団から自然と「君が代」の奉唱が起こった。
すると陛下は立ち止まってじっと聞き入られていました。
歌声は途絶えがちとなり、やがて嗚咽に変わった。すると陛下は何度もうなづかれておりました。・・・
このことが段々と口コミで伝えられ、他の団体から皇居勤労奉仕が続くようになりました。
大きな宣伝もされていないのに、この奉仕活動は今も絶えることなく続いている。参加者は手弁当で交通費も実費。それでいて参加者は喜びと感動を味わって帰っていく。
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