日本には語られなくなった歴史がたくさん埋もれています。
知らなければ何とも思わず、知ればその偉大さに驚き、そして感謝に思うものであります。
「常陸丸」もそのひとつであります。
今やその名は知られることもなく、国民の関心もないものでしょう。
歴史をきちんと教えなければ、先人たちの偉業が消えてしまうのです。
靖国神社へ行かれた方はご存知かもしれません。
はじめて知ったという方は、今度、靖国神社へ行かれた時に「常陸丸」の碑にぜひとも手を合わせて下さい。
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当時、日本の未熟な技術では1600トンしか造れなかったのですが、莫大な投資と優秀な技術者を採用し、
ついにはイギリス人が嫉妬するほどよくできた輸送船となったのです。
この「常陸丸」の名を日本国内に知らしめたのが日露戦争でした。
1904年6月15日、運送船・常陸丸は陸軍将兵1055名、馬320頭、武器弾薬を積んで、広島県の宇品から朝鮮と満州へ輸送するために佐渡丸とともに出航しました。
当時、ロシアは極東ウラジオストックと旅順港に艦隊を保有しておりました。
ウラジオストック艦隊司令長官スクルイドルフは玄海灘で日本から支那大陸へ向かう輸送船団を襲撃して日本の輸送を絶とうとします。
そして、ロシアの装甲巡洋艦3隻がウラジオストック港を出港し日本海を南下していったのです。
日本海軍は対馬を基地にした上村彦之丞中将を司令官とした第二艦隊がこの海域の警備についておりましたが、哨戒任務の巡洋艦・対馬が濃霧の中を南下するウラジオストック艦隊を発見します。
我が海軍は無線で連絡し、直ちに第二艦隊が出撃し、第二艦隊から馬関港務部に対しては商船の西航を停止するよう打電しました。
しかし、当時の日本では軍艦以外で無線を持つ船は少なく、常陸丸も佐渡丸も警告の無線を傍受することは出来ずにそのまま航行を続けていました。
濃霧のため視界が悪くなり、常陸丸も佐渡丸もすぐ近くに敵艦がいることには気づかず、ついに玄界灘の沖でロシアの艦隊3隻に捕捉され、ロシア艦隊グロモボイから常陸丸に対して砲撃を開始してきました。しかも猛烈な集中砲撃です。
常陸丸は小銃で応戦しますが、運送船のためそれ以上の攻撃は出来ません。
ロシア側の凄まじく執拗なまでの攻撃に常陸丸の甲板には味方の屍で埋めつくされました。
ロシア側の凄まじく執拗なまでの攻撃に常陸丸の甲板には味方の屍で埋めつくされました。
もはや最後と悟った輸送指揮官の須知中佐は我が軍旗を焼き、その場で割腹し、果てました。
続いて大隊長の山縣少佐以下は万歳三唱し、直ちに自決し、あとに続きました。常陸丸に乗船していたイギリス人船長ジョン・キャンベルと乗組員たちはそのまま海底に沈んでしまいました。
続いて大隊長の山縣少佐以下は万歳三唱し、直ちに自決し、あとに続きました。常陸丸に乗船していたイギリス人船長ジョン・キャンベルと乗組員たちはそのまま海底に沈んでしまいました。
当時、沈んだ船の中で最大の被害を出したのがこの常陸丸でした。
この事件は当時の日本国民を激昂させました。
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明治37年10月30日、常陸丸の殉難者墓碑を軍人会館(九段会館)の敷地内につくり、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われました。
時は流れ、大東亜戦争後、GHQの命令で常陸丸の碑が廃棄されました。
しかし、その後、昭和の成長期に都営新宿線・地下鉄10号線の工事の際に、地中から無残にも3つに切断されたこの常陸丸の碑が発見されたのです。
この常陸丸の碑を昭和40年に復興して、靖国神社に「常陸丸殉難記念碑」が建てられました。
毎年 靖国神社では6月15日に、この記念碑の前で慰霊祭が行なわれています。
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