前回も日本の文化と伝統は、拙稿、日本の文化と伝統「友禅染め」をご紹介させていただきました。今回は、同じ「古都、京都」の「西陣織」です。
「きもの」の装いの早覚え法として「(正装は)染めの着物に織の帯、(趣味着は)織の着物に染めの帯」という言葉があります。
なぜ「染め」の着物の方が「織り」の着物より格上とされるのでしょうか?
また、なぜ帯ではその反対に「織帯」の方が、「染帯」より格上とされるのでしょうか?
また、なぜ帯ではその反対に「織帯」の方が、「染帯」より格上とされるのでしょうか?
と疑問に思われる方が多いでしょう・・・
それは、織の着物は本来仕事着だったからです。
絣(かすり)も、紬(つむぎ)も農作業が終わった後、農家の片隅で織られていたものです。
今日、高級品の代名詞になっていつかは「結城」といわれる結城紬(ゆうきつむぎ)も元は、仕事着です。
今日、高級品の代名詞になっていつかは「結城」といわれる結城紬(ゆうきつむぎ)も元は、仕事着です。
前回ご紹介させていただいた、「手描友禅」は、多色を用い、多くの職人の手を経ます。
絣や紬のように、一般の家でできる品物ではなく、設備や人手が必要であり、またお金がかかるということは、身分の高い人や富裕層でないと着られなかったことにも由来しています。
西陣織の淵源は、遠く古墳時代にまで求められます。5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦(はた)氏の一族が山城国、今の京都・映画村で有名な太秦(うずまさ)あたりに居住し、養蚕と絹織物の技術を伝えました。
飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれたのです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれています。
平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰退し、律令政治のタガがゆるみ、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになりました。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組んだのです。
室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。
拙稿をご覧頂いております皆様は、室町時代に京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こったのはご存知だと思います。
応仁の乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。戦乱が治まると職工たちは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。
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高機(たかはた)の図(財・西陣織物館蔵)平安時代から明治のはじめまでの西陣織は高機(空引機)とよばれる機をつかって、二人がかりで織りあげていました。
大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)が可能になったのもこの頃です。こうして紋織による高級絹織物・西陣織の基礎が築かれ、その産地としての西陣が確立されました。
西陣織とその産地・西陣は朝廷からも認められ、豊臣秀吉などによる保護を受ける一方、その後も自ら中国・明の技術を取り入れるなどしてすぐれた織物を生み出し、いっそう発展を続けました。そしてわが国の絹織物業の代表的存在であると同時に、京都を代表する産業ともなったのです。
江戸時代になり、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄。大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成されました。
江戸時代も半ばを過ぎると西陣にも苦境が訪れたのです度重なる飢饉、幕府による奢侈(しゃし)禁止令などで需要が減少し、二度の大火にもあい、丹後や桐生など新しい絹織物産地が生まれたことも痛手となったのです。
明治になって東京奠都も、京都の街全体の勢いを失わせたのです。
その京都の存在をアピールするために行われたのが、「京都博覧会」でした。明治4年から昭和3年までほぼ毎年、計56回開かれ、京都の産業及び観光の振興に功績を残しました。明治4年の博覧会は日本で博覧会を称した最初のもので、首都としての地位を失った京都の景気回復と啓蒙を目的として三井八郎衛門、小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人が主催しました。
明治5年より、拙稿、日本の文化と伝統「京の花街 春のをどり」 でもご紹介させていただいた祇園甲部の「都をどり」が始まったのです。
西陣は、海外の先進技術を積極的に導入し、文明開化のチャンスにいち早く呼応・・人材をフランスなどに 派遣し、ジャカード織物などの技 術を取り入れて、近代化に成功しました。高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練にも努め、わが国の高級織物業の代名詞としての地位を確立し、日本の織物の最高峰と言われています。
大東亜戦争後、機械化がさらに進み,新しい技術が次々に導入されました。現在では,技術の高度化とともに作業工程は細かく分業化され,そのほとんどの工程を中小企業がになっています。
一方で,労働力を求めていわゆる「出機」(でばた,下請け工場)の地区外化が進み,例えば西陣帯の約6割が京都市外で織られています。また最近では高級な着物や帯だけではなく,ネクタイやバッグ,カーテンやお守りの袋など多様な織物も製造されるようになりました。
筆者は、西陣でも一流と言われる川島織物(皇室御用達)の織物文化館を訪れ、過去、現在の名工の作品を拝見させていただきました。
欧米諸国から絶賛される紋織(もんおり)、綴織(つづれおり)の技術は世界最高峰ともいわれる作品に圧倒されました。
これらの技術を伝承するために、関係各位のたゆまぬ努力は計りしれません。
我国は素晴らしい伝統と文化を有した国なのです。