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端午の節句に考えること

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2009/5/5(火) 午後 7:53最近の記事練習用  Yahoo!ブックマークに登録
 

        (地元の風景)
 

   御来訪感謝申し上げます。

 今日は端午の節句、何事も「男女平等」にしなくては気の済まない今風に言えば「子どもの日」であります。

 私には子どもがいませんが、身近な存在として二人の妹が産んだ子どもたちが、上は18歳から下は8歳まで男女ふたりずつの甥と姪がおります。

 妹(女兄弟)の子どもというのは、長男の私にとっては母親と血が繋がっているのと、子どもを生むために里帰りをして出産後しばらく滞在することもあって、生まれて直後から接することができて、遠慮なく可愛がることもできるので、俗にいう「眼の中に入れても痛くない」ほどの思いを彼らに抱いています。

 私には男兄弟はいないので、あくまでも聞いた話として、同じ甥・姪でも男兄弟の場合、産んだ母親(兄弟の嫁)が他人のため、遠慮が先立ってしまい、可愛いと思っても素直にデレデレすることはできないと言いますから、どうしても距離が違って来るのでしょう。
 
 
話が横道に逸れてしまいましたが、子どもの日だからという訳でなく、常日頃から念頭に置いて考えなくてはならないのが、大人の責任として日本をどんな形で子ども達へ渡してやれるかということだと思うのです。
 「自分ひとりがどうこう考えたって、どうすることもできないではないか!」と言われるかもしれませんが、それではあまりに無責任であり、一人ひとりがどう考えるかで社会はどうにでも変わって行くものであると密かな希望的確信を抱いている者としては、今日の日を「子どもたちの将来の日本」について考えたいと改めて感じるのです。

 私が本ブログを立ち上げるきっかけとなった遠因は、今から14年前にある団体に入ることになったのですが、その団体を創立した女性が言った「今の日本を寄ってたかってこんな国にしたのは、あなた方の責任ですよ」という厳しいお言葉を最初に教えられました。
 「国の本来も知らず、西洋かぶれの考えを無自覚に受け入れて、男のあるべき姿、女のあるべき姿の規範もごっちゃ混ぜにして、日本の美徳を壊してしまったのです。だからこの国は今までは考えられなかった西洋的な堕落した社会になったのです。」と一刀両断に斬られてしまいました。

 そのことを自分なりに考えると、戦後の高度経済成長とともに確かに経済は豊かになり、地方の次男・三男が都会に出て行き新たな所帯を作る中で、夫婦と子どもだけの「核家族化」が進み、祖父ちゃん・祖母ちゃんを筆頭に先祖代々家族が仲良くそれぞれの役割を演じながら、親の躾と祖父母の躾の両方を受けて幅広い家庭内教育を身につけることによる理想的な情操教育も得る機会のないまま大人になっていく人達が大勢を占めるようになり、日本人本来の徳性を失ってきたのではないかということでした。

 お父さんはお父さんの役目、お母さんはお母さんの役目があって、それは「男はかくあるべき」、「女はかくあるべき」という古来からの行動規範を元にしたものであり、それが子どもたちを育てていく上においての根本的な基盤でありました。

 ところが、男の役割も女の役割もいつのまにか明確なものでなくなり、むしろ「女の論理」が大半を占める育てられ方をされて来た子どもが圧倒的多数を占めるようになったのが戦後体制の大きな特徴と思います。

 その結果、生物学的「男と女」に分類されるだけの男性と女性が社会の構成員の大勢を占める世の中がいつの間にか出来上がってしまいました。

 元々彼らは核家族の出身ですから、お年寄りから実際の経験に基づいた昔のお話を聞くこともなく、昔(歴史の現場)のことは本を読むか教育を受けるしかなく、それが正しい、間違っている、の判断をする術もなく、無防備にほぼ洗脳と同じ次元で人間教育が為されて来た訳であります。

 それを「(真の意味での)教養が無い」と厳しく指摘されたのです。

 人間は経済(=金)を優先して、道徳(=人としてあるべき姿)を後回しにすると「人心が乱れる」生き物なのだというのです。

 金を優先すると「自分さえ良ければ他人はどうなってもいい」という傾向になりがちです。
 織田作蔵の「堕落論」という本がありますが、「人間堕ちて初めて光明を知る」という主旨の部分があります。
 これは、金に追われているうちは自分自身や人間の本来の価値(深奥部)を知ることも出来ず、生まれて来た意味も人間社会の摂理も知ることはできない、という意味であります。

 つまり、金のありがたさも本当には分からず金に振り回されているだけの、金はあっても「金に不自由している」ことは貧乏人と表裏一体の関係にある「貧しい人々」であると断じています。
 個の人間としての柱となる背骨が無いわけですから、大黒柱のない欠陥住宅のようなもので、ちょっとした地震で簡単に崩れ去る存在でしかないということだと理解しています。

 教養とは、何が正しく、何が間違いなのかを見極め的確に判断することのできる能力であると考えます。

 絶対的な「真理」を追究するのが学問であり、「あって欲しい」「そうあるべきだ」という人間の感情が移入されたものは学問でも真理でも何でもなく「空想ファンタジーの絵空事」であります。

 「温故知新」という言葉は誰でもが学校で習った言葉でありますが、不肖敬天愛人はこの言葉を「根っこ(ルーツ)を知らずして新しい真理は発見できない」と勝手に解釈しています。
 
 「真理」とはその時代その時代に即して形は変わるが基本形は変わらない「根」ということであります。

 抽象的な物言いになってしまいましたが、我々責任世代が自分を耕して「根という土壌」を作らなくては、可愛い子供たちは「苗」を植え付けることはできないということを言いたいのです。
 そして子供たちは彼らの次世代のために新たな土壌を作ってさらに受け継いで行くことができるのです。

 戦後経済の豊かさを得た代わりに失った荒廃した荒地に成り果てた「豊かな日本の土壌」を、再び耕すのが今の我々大人世代の逃げる事のできない義務なのであると生意気にも申し上げたいのであります。

 「子孫に美田を残さず」という格言はありますが、「子孫に豊穣な土地は残すべき」と拙に感じるのであります。
 
 
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