今年3月までの日教組の委員長だった中村譲
今、私の地元の選挙区の自民党候補者の応援のための集まりに、地元でもトップの進学校の元校長がいらっしゃいます。この元校長は「突中で辞めましたが、実は日教組に入っていました」と仰っていました。保守の候補者の高校の担任でもあったこの元校長も日教組とは思えぬほど保守の方で、日本を愛する方なのです。
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「君が代はそっと、人の心の自由に任せておくにかぎる。息苦しく運ぶ晴れの式は、春に似合わない」~天声人語
英国の故マーガレット王女の逸話にはふと笑ってしまう。52年前のこと、婚礼のあと宮殿のバルコニーで群衆に手を振る姿をテレビが大写しにした。数日たってロンドンの新聞に投書が載ったそうだ。「まことに国家の慶事だが」と投書は述べつつ、「ご両人は手を振りながら『これぐらいでもういいでしょう』『もう少しの辛抱よ』などと話し合っていた。いささか不謹慎かと思われる」。
投書の主には読唇術の心得があった。「気さくなカップルが一本取られた格好だった」と、昔の小欄が回想している。どこかユーモラスな英国風とは違って、浪速の風はどうにも寒い。
教職員が君が代を歌っているかどうか、口の動きまで調べる異様さに、踏み絵ならぬ「踏み歌」との声も上がる。国歌を管理の道具に貶めてはいないか。君が代を重苦しいイメージに染め直しているのは間違いあるまい。折からの入学式シーズン、全国の学校への影響もあろう。
先生にせよ父母にせよ、互いの口元を気にし合うような図は、児童生徒の目にどう映るだろう。
「桃李もの言わざれども下(した)自(おのずか)ら蹊(みち)を成す」という。
歌も同じで、歌いたい歌は誰が何を言わなくても合唱の輪が広がる。「故郷(ふるさと)」などいい例だろう。法の権威で口をこじ開けても、歌われる歌の方が恥じ入ってしまう。
読唇術から思想チェックの読心術まで距離はそう遠いものではない。
君が代はそっと人の心の自由に任せておくにかぎる。息苦しく運ぶ晴れの式は春に似合わない。
(2012.4.6 朝日新聞)
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「君が代はそっと人の心の自由に任せておくにかぎる」。
こんなことを言っているから卒業式で起立しない教員が出てくるのです。自由を都合のよいように履き違えるバカ新聞であります。しかも今年はあぐらをかいた教員まで続出しました。
教員として生徒の一生に一度の思い出に残る卒業式に対して、このようなあり得ない悪意の行為こそ「そんな教員は今すぐ辞めるべきである」と一喝することこそ本来のマスコミのスタンスなのです。
しかし、朝日新聞はそうは言わないのです。
「息苦しい卒業式」にしているのは思想のおかしな教員たちであります。
「春には似合わない」と思っているのは朝日新聞のような日本を愛さない連中だけでしょう。
また、「国歌を管理の道具」にさせるような行為をしてきたのは日教組教員たちであります。
日本では日教組の日の丸闘争で自殺にまで追い込まれた校長が出ました。
平成11年2月28日、広島県の県立世羅高校校長の石川さんが自宅の物置で首をつっているのを家族が発見しました。世羅高校では翌日に卒業式を控えていました。
この時、広島県では学習指導要領に基づいて卒業式と入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うように全校長に職務命令を出していました。当然といえるでしょう。しかし、日教組が猛烈に反発し、組合教員と校長が対立していたのです。
この時、石川校長は親しい校長に「苦しい」「何が正しいのかわからない。自分の選ぶ道がどこにもない」と、苦しい心中を打ち明けていたといいます(平成11年3月1日付の産経新聞)。
亡くなった石川校長は、国旗・国歌反対運動という自分たちのやりたいように教育現場を操る日教組教員に対して、「国旗掲揚、国歌斉唱を行い、立派な卒業式にしなければならない」と言っていたといいます。まさに生徒のために正義感や使命感を持っていた惜しい学校長でありました。
この校長自殺を受けて広島県の日教組(広教組)はこういう主張しました。
「自殺の責任は教員たちにはなく、県教育委員会が日の丸・君が代について職務命令を出し、学校現場を混乱させたことに責任がある」と言いました。
ある教員は「あの校長はアホや。日の丸や君が代に反対すればよかったんや」と言いました(「学校の先生が国を滅ぼす」より)。
同じく平成11年3月2日の朝日新聞の社説にはこう書いてありました。
「学校や生徒の自主性を大事にする、というのは教育行政の大きな流れといえる。それなのに日の丸掲揚と君が代斉唱だけは、上から形式的に強制する。そこだけ逆流しているような違和感がある」
これはまるで日教組を擁護する日教組の立場の主張であります。これこそ日教組と朝日新聞の癒着がはっきりわかるものであります。
ちなみに、この世羅高校は平成18年に生徒を修学旅行で韓国に連れていき、生徒に「韓国と日本の歴史的な不幸な事実と在日韓国人が受けている不当な差別的現実」という謝罪文を読ませ、韓国市民の前で土下座までさせていたのです。
この生徒たちが土下座するいわれもなければ、謝罪する必要もありません。
生徒に肝心なことをやらせず、いらないことばかりやらせるのが日本を嫌いな日教組の教員たちなのです。それとつるんでいるのが朝日新聞ということなのです。
「先生にせよ父母にせよ、互いの口元を気にし合うような図は、児童生徒の目にどう映るだろう。」
それ以前に卒業式に起立すらできない教員の姿こそ児童生徒の目にどう映るだろうか。
国旗・国歌は「戦争賛美だ」「右翼の旗、右翼の歌だ」と言い、天皇陛下をけっして敬わず、子供たちに向かって「おじいさんが戦争に行ったことがあるという人は手を挙げて」と言って手を上げた子供に向かって「あなたのおじいさんの血はけがれていますね」と言い、「人殺しをした日本の国は大嫌い」と言わせる授業をする。「何があっても戦ってはいけない」「どんなことがあっても自分の命を危険にさらしてはいけない」「生きることが尊いのだ」と教え込み、「自己犠牲の精神」や「奉仕の精神」は教えず、
横須賀の日教組では「万引きもいわば社会経験だ」と万引きの指導までしていたのです。
がれき受け入れ拒否や放射能が怖いと言ってヒステリーになる要素はこういうところにもあるのです。
日教組の組合員の中にも、組合活動は一切せず、ただ付き合いだけで入っている教員もいます。そして、多くの教員は自分を犠牲にしながらも生徒のために日夜その務めを全うするべく奮闘されている方もいらっしゃいます。
しかし、そういう中でも日本を愛せず、日本という国そのものをひっくり返そうとする左翼イデオロギーに基づいて、日本の歴史を自虐の暗黒史観で貶めて、日本の偉業や日本の誇りを認めず、日の丸・君が代を天皇に結びつけて忌み嫌い、愛国心を敵視する反日教員がいるのも事実です。
本来の誇りある強い日本を取り戻すには教育の役割は重要です。
反日イデオロギーが強く、日本を愛せない教員は教員になれないようにするべきです。
もはや日本人としての適性すらない人間が純真な子どもたちを教育していること自体がおかしいのです。
乃木大将が学習院院長のときの訓示にはこう書いてあります。
「何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、あるいは国の害になる様な人間は死んで仕舞った方がよいのである」(乃木希典)
この訓示をぜひ学校で教えてほしいものです。
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