日本三大桜の一つ山高神代桜、推定樹齢は1,800年とも2,000年とも言われ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折に植えたと言われています。(山梨県北杜市武川町山高)
日の本の国がまだ神代の時代、富士の頂から、花の種をまいて花を咲かせたとされる木之花咲耶姫(このはなさくやひめ:さくらのように美しい姫の意)は、日本最古の書、「古事記」に登場した女神です。そして、桜の語源は、一説によると、この「さくや」が転化したのではないかともいわれています。
美しい、世界に誇る桜の品種のほとんどが我が国にあり、このはなさくや姫の子ども達が「日の本の国」をところせましと咲き誇っています。
美しい、世界に誇る桜の品種のほとんどが我が国にあり、このはなさくや姫の子ども達が「日の本の国」をところせましと咲き誇っています。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切にしました。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神々は、私たちの生活のすべてに関わる神として、人々に崇(あが)められるようになったのです。
例えば、山の神は、生産をつかさどる神です。それもありとある全てのものをつかさどっているといえます。なぜなら猪、鹿などの獲物や山の樹木、銅や鉄、田を潤す水に至るまで、山からもたらされるものは全て山の神のお陰だと祖先は信じ、崇めてきました。狩猟や林業、炭焼きなど山仕事をする人々にとっては、大切な生活の糧(かて)を与えてくれる神として厚く信仰されています。また、田の神と山の神は同じ神さまだともいわれ、山の神は春になると人里に降りて田の神となり、稲を守り豊穣(ほうじょう)をもたらし、秋に収穫が終わると山に帰ると信じられています。
山におられた田の神さまが 春が訪れあたたかになる頃になると山から里の降りてきて桜の木のてっぺんにお座りになられます。
そして・・・「さぁ~~里の民たちよ 稲作の準備をするのじゃ」 と民たちに
お知らせするために桜を咲かせられるとも言われています。
さくら の 「さ」は 稲 「くら」 は 神座(かみくら)のくら で神さまがお座りになるところで、「さくら」 は田の神さまが宿る木と言われ、日本人が太古より桜を愛でた淵源とも言われています。
稲を植える月を、「サツキ」と言い、苗のことを早苗(さなえ)というように、稲にまつわる言葉にはほとんどといっていいほど「サ」がついています。
毎年稲作りの作業が始まるのは、桃の節供、つまり旧暦の三月三日、今でいうと四月中旬の頃でした。山に桜の花が咲くのはそれよりやや早い四月初めの頃です。長い冬が終わり、いよいよ今年も稲作を始めようというとき、人々は農閑期には山に帰ると信じられていた「田の神さま」をお迎えするために山に行きました。そこで見たのが、まるでたわわに稔った稲穂のように白い花をいっぱいにつけている桜の木でした。人々は、この桜の木にきっと稲の霊が宿っているに違いないと感じて、桜の木にお供えものをして田の神さまに豊作を祈願したのです。こうしてお花見は、稲作と切り離せない重要な行事になってきたのです。
桜に関しての明確に記述されているのが、履中天皇の時代で、履中3年11月に、天皇陛下と皇后陛下が磐余の市磯池に舟を浮かべ宴を催されたとき、その盃の中に、サクラの花びらがはいったと記されており、最古の記述とされています。
奈良時代になると、美しい花の代表として桜を愛でる習慣が生まれました。万葉集には、サクラを詠んだ歌が41首登場します。萩の140首、梅の118首には及びませんが、中国からの渡来種である梅などは、当時文化人や貴族たちに、珍しがられたものと推察されます。また、明らかに、庭に植えている梅とちがい、野山に咲いている桜をこの時代、好んで庭などに移植し、鑑賞する風潮が生まれてきたことがうかがい知れます。
平安時代から安土桃山時代にかけては桜の時代といえます。古今集には、春の歌134首のうち、ほとんどが桜の歌となり、梅の歌はわずかばかりとなっています。現代のように、「花は桜」といったイメージが定着していることがうかがえます。その表れの一つとして、仁明天皇の御代、御所の紫宸殿の前庭にあった左近の梅が、桜に代わったことでもうかがえます。そして、このころ都大路にも桜が植えられていたという記述も残っています。つまり、桜の優美さを素直に愛で、日本古来の自生種を大切にする文化が生まれたともいえます。殿上人の自然を愛する風流な姿が目に浮かぶようです。花の宴、桜狩など風流な行事が催されていたのもこの時代です。
平安時代後期から鎌倉時代を経て安土桃山時代は、貴族の支配する時代から武士が支配する時代へと替わりました。この時代の桜への考え方は、素直に優美さを愛でるだけではなく、武士の潔さ、散り際のよさなどといった精神的象徴としての「花」、そして、桜を通して自然への賛美と憧憬といった、思想が広く、支持されていったのです。
太平の世であった江戸時代は、学問、芸術、文化が栄えた時代でした。そして、桜の世界もかつてない賑わいをみせました。桜の花見も、武士などの支配階級だけであったものが、庶民の中にも広がり、上野、浅草、隅田川堤、新吉原などが桜の名所として発展しました。京においても嵐山、仁和寺、平野神社など、多くの名所が誕生し、現在も名所として残っています。
現在の花見といえば、桜の下、そうとも限らない場所でも、飲めや歌えやの大騒ぎされている姿を見かけますが、花見のシーズン、目をおおいたくなるような状況を目にします。花より団子という言葉がありますが、今一度、桜を神宿る木と崇め、御供をし、五穀豊穣を祈ったと先人の歴史を振り返り、大東亜戦争で護国の神となられた先達を偲び、感謝し、毎年花をつける桜を尊敬の念を込め、花を愛でてみたいものです。
わが国は「桜」の国です。
奈良時代になると、美しい花の代表として桜を愛でる習慣が生まれました。万葉集には、サクラを詠んだ歌が41首登場します。萩の140首、梅の118首には及びませんが、中国からの渡来種である梅などは、当時文化人や貴族たちに、珍しがられたものと推察されます。また、明らかに、庭に植えている梅とちがい、野山に咲いている桜をこの時代、好んで庭などに移植し、鑑賞する風潮が生まれてきたことがうかがい知れます。
平安時代から安土桃山時代にかけては桜の時代といえます。古今集には、春の歌134首のうち、ほとんどが桜の歌となり、梅の歌はわずかばかりとなっています。現代のように、「花は桜」といったイメージが定着していることがうかがえます。その表れの一つとして、仁明天皇の御代、御所の紫宸殿の前庭にあった左近の梅が、桜に代わったことでもうかがえます。そして、このころ都大路にも桜が植えられていたという記述も残っています。つまり、桜の優美さを素直に愛で、日本古来の自生種を大切にする文化が生まれたともいえます。殿上人の自然を愛する風流な姿が目に浮かぶようです。花の宴、桜狩など風流な行事が催されていたのもこの時代です。
平安時代後期から鎌倉時代を経て安土桃山時代は、貴族の支配する時代から武士が支配する時代へと替わりました。この時代の桜への考え方は、素直に優美さを愛でるだけではなく、武士の潔さ、散り際のよさなどといった精神的象徴としての「花」、そして、桜を通して自然への賛美と憧憬といった、思想が広く、支持されていったのです。
太平の世であった江戸時代は、学問、芸術、文化が栄えた時代でした。そして、桜の世界もかつてない賑わいをみせました。桜の花見も、武士などの支配階級だけであったものが、庶民の中にも広がり、上野、浅草、隅田川堤、新吉原などが桜の名所として発展しました。京においても嵐山、仁和寺、平野神社など、多くの名所が誕生し、現在も名所として残っています。
現在の花見といえば、桜の下、そうとも限らない場所でも、飲めや歌えやの大騒ぎされている姿を見かけますが、花見のシーズン、目をおおいたくなるような状況を目にします。花より団子という言葉がありますが、今一度、桜を神宿る木と崇め、御供をし、五穀豊穣を祈ったと先人の歴史を振り返り、大東亜戦争で護国の神となられた先達を偲び、感謝し、毎年花をつける桜を尊敬の念を込め、花を愛でてみたいものです。
わが国は「桜」の国です。