もっとも民主的な首相
8月31日、新聞の朝刊に東久邇宮首相の「国民諸君、私は皆さんから直接手紙
を戴きたい」というメッセージが掲載された。「嬉しいこと、悲しいこと、不平不満
何でもよろしい、私事でもよし公の問題でもよろしい、率直に真実を書いてほしい
と思ふ」という内容だった。
呼びかけに対する反響は大きかった。投書の数は日に日に増し、多い日には
1日2000通あリ、に達することもあった。東久邇宮は手紙を読み漁った。毎朝
登庁すると寄せられた手紙に目を通すのが日課となり、読み切れない分は家に
持ち帰って読んだ。今まで溜まっていた鬱憤(うっぷん)が堰(せき)を切ったように
噴出した様子だった。
いちばん多かった要望が食糧問題だった。続いて、衣住の問題や学校について
、そして戦災家族の東京復帰についてなど、問題も多岐に及んでいた。宮は
これらの問題に精力的に取り組み、直ぐにできる間題は直ぐに対処した。
政府首脳が積極的に国民の声を広く集めたというのは、日本の歴史上、恐らく
二度目のことであったろう。一回目は嘉永6年(1853)にペリー提督が現れて
日本に開国を迫ったとき、時の老中首座〔現在の首相に該当する〕阿部正弘が
御家人、旗本だけでなく、広く町民からも投書を受け付けた。このときは遊廓の
主人からの手紙もあったという。
東久邇宮は国民から情報を集めるだけでなく、逆に今まで隠蔽されていた戦争に
関する情報などを積極的に政府から国民に開示するべきであると考えた。宮は
首相に就任して間もなく、早い時期に臨時議会を開くべきだと主張していたが、
9月4日にそれが実現し、帝国議事堂〔現在の国会議事堂〕にて
昭和天皇御親臨の元、第八十八回帝国議会開院式が行なわれた。
東久邇宮は、今まで国民に極秘とされていた陸海軍の損害だけでなく、その他の
重要な事項を議会に報告するつもりで準備を進めた。閣議で各省大臣に対し、
一切の秘密を国民に明らかにすることを要求した。陸軍省は難色を見せて
いたが、下村陸相が部下を説得することができ、また海軍省も軍艦の損失を
公表することに躊躇したが、これも緒方書記官長が交渉して、それぞれ首相に
資料を提出した。
9月5日、東久邇宮首相は午前に貴族院、午後に衆議院でそれぞれ約50分間の
演説を行なう。戦況の経過と、戦争による軍と民間の被害の実態を公表し、
なぜ日本がポツダム宣言を受諾するに至ったのかを明確に説明し、今後の
政府が取るべき方策について述べた。
その全文は『帝国議会衆議院議事速記録八一』(東京大学出版会)に収録
されているが、長大なため、印象的な一文だけを次に引用する。
「戦ひは終りました、併しながら我々の前途は益々多難であります、〈中略)今後
帝国の受くベき苦難は蓋(けだ)し尋常一様のものではありませぬ、固(もと)より
政府と致しましては衣食住の各方面に亘り、戦後に於ける国民生活の安定に
帝国の受くベき苦難は蓋(けだ)し尋常一様のものではありませぬ、固(もと)より
政府と致しましては衣食住の各方面に亘り、戦後に於ける国民生活の安定に
特に意を注ぎ、凡ゆる部面に於て急速に万全の施策を講じて参る考へで
あります」そして次の言葉で国民を鼓舞して演説を終えた。
「全国民が一つ心に融和し、挙国一家、力を戮(あわ)せて、不断の精神努力
に徹しますならば、私は帝国の前途は軈(やが)て洋々として開け輝くことを
固く信じて疑はぬものであります(拍手)斯くしてこそ初めて宸襟(しんきん)を
安んじ奉り、戦線銃後に散華殉職せられましたる幾十万の忠魂に応へ、
英霊を慰め得るものと固く信じます(拍手)」
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より