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[転載]木戸内大臣の説得  「占領下の皇族」

木戸内大臣の説得
 
 
切迫した状況を聞かされた東久邇宮は「この危機を突破しようという人がなく、
また、一般情勢がそんなに危険ならば考え直しましょう」と答えた。

翌16日朝8時頃、侍従職から宮邸に電話があり、天皇陛下が御召になったので
午前9時30分に宮中に参内するようにとの要請がくる。宮内省からも電話があり、
参内したら直ぐ内大臣の部屋まで来るようにとのことであった。宮は当分別荘に
来られないかもしれないと思い、部屋を片、づけて、車の迎えを待った。

東久邇宮は軍服を着て約束の時問に皇居に上がり、その足で、木戸内大臣の
部屋に行った。二人はこのとき20分ほど話した。木戸は「天皇陛下の思召により
、東久邇宮に後継内閤の組閣をお命じになるはずである」と述べた。このとき
宮は既に大方気持ちの整理をつけていたと思われるが、「一通り内大臣から
現下時局の概要の説明を聴いた後で、最後の決心をしましょう」と答えた。

木戸は容をあらため、天皇陛下は国民を救うためにご自分はどうなっても
よろしいという固い御決心を持っておられること、終戦とともに人心が混乱
して危険な状態であり、米国が本土進駐を急いでいることもあって速やかに
新内閣を成立させる必要があること、一昨夜に反乱事件があったとおり、
今後も軍が何をしでかすか知れず、そのためにも軍部を統制できる人が
必要であることなどを述べ、「今回は重臣会議を開かず、陛下の思召に
よって決定することになった。

この際、東久邇宮がなおも辞退するときは、陛下にご心配をかけ困らせること
になるから、ぜひ内閣を組織して頂きたい」と結んだ。東久邇宮を誰よりも強く
推薦したのは木戸幸一その人だった。したがって、木戸の説明はただ 
天皇の思召(おぼしめし)を代弁しているのではなく、自らの強い気持ちを
込めたものであり、宮の気持ちを動かすには十分だった。

東久邇宮は考えた、自分は政治向きには素人であるが懇意にしている
近衡文麿元首相を相談役にすることで、まとまりをつけることができるだろうし、
軍の統制についても軍部内の知人の協力得て説得できるだろうと考えた。
そしてこの終戦直後の大混乱さえ突破すれば自分の後を継ぐ政治家が現れる
はずだと思い、ついに今までの考えを翻して総理の重職を受けることに決心する
 
「組閣の大命を受けましょう」という宮の答えに木戸が非常に喜んだことは
言うまでもない。話はまとまった。東久邇宮は12時ちょうどに御文庫で
昭和天皇の謁を賜わり、組閤の大命を拝した。

「卿に内閣組閣を命ず特に帝国憲法を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、
秩序の維持に努め、時局の収拾に努力せよ」
これはそのときに東久邇宮が 昭和天皇から賜った御言葉である。内閣制度が
発足して初めての皇族内閣が誕生した。明治政府が樹立したとき、有栖川宮
熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が政府の最高ポストである「総裁」に
就任したことがあったが、皇族が政府の長に立つのはこの二例に限られる。

東久邇宮はこの日の日記に「この未曾有の危機を突破するため、死力を尽くす
ことは日本国民の一人として、また、つねに待遇を受けて来た皇族として、
最高の責任であると考えた」と記した。これは将に「ノーブレス・オブリージュ」の
発想に他ならない。しかし、敗戦処理は誰も経験したことがない、
未知の任務だった。




                              竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より

転載元: サイタニのブログ


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