昭和の無血開城
「私は総理大臣になることは、真っ平ご免です」
東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王は、松平康昌(まつだいら
東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王は、松平康昌(まつだいら
やすまさ)内大臣秘書官長にきっぱりと断った。東久邇宮は玉音放送前日
の昭和20年(1945)8月14日の午後、松平から「本日中に会いたい」との
連絡を受け、夕方7時に神奈川県・川崎にある宮の別荘で松平と面会して
いた。
松平は「本来ならば木戸幸一内大臣が来て話すはずだが、非常に忙しい
ので、大臣に代わって話す」と断った上で、「木戸内大臣の考えでは
鈴木首相は近く総辞職をするかも知れない。その後任として、軍部を
抑えて行ける自信のある人が重臣の中にはないから、この難局にあたって
総理の大任を受ける人はないだろう。その時には、東久邇宮に総理に
なってもらわなければならないかも知れない」
(東久遜稔彦『東久適日記』)
(東久遜稔彦『東久適日記』)
と東久邇宮に打診したときのことだった。
東久邇宮は、自分は政治家ではなく、また軍人であるから政治に関与する
東久邇宮は、自分は政治家ではなく、また軍人であるから政治に関与する
べきではないし、この国難を打開する見通しもっいていないと理由を述べ
、総理大臣への就任を拒絶した。
宮には忘れ難い思い出があった。東久邇宮の父久邇宮朝彦(くじのみや
あさひこ)親王は、幕末に孝明天皇の懐刀として政治的に重要な役割を
担った人物だった。朝彦親王は 天皇の思召(おぼしめし)どおりに
討幕派を抑、公武合体派に与(くみ)したため、維新後に明治政府から
睨(にら)まれて広島に流され、数年間にわたつて蟄居(ちっきょ)
〔刑罰の一種で禁固刑に類似〕を命ぜられた。蟄居が解かれた後は
〔刑罰の一種で禁固刑に類似〕を命ぜられた。蟄居が解かれた後は
京都に住むことになつたが、他の皇族とは異なる差別的な待遇を受ける。
そのために稔彦王らは他人の家に預けられ、兄弟は離れ離れで育てられた
、苦難と貧乏を経験した東久邇宮は「一生涯政治にはかかわるまい」と
固く決めていたのである。松平は「なおよく考えておいてもらいたい」
と念を押して帰つた。
そして迎えたのが翌8月15日正午の玉音放送である。東久邇宮は直立
して玉音を拝聴し、涙が出るのを止めることができなかった。宮は午後
3時の放送で、昨日使者を送つてきた阿南陸相が自決したことを知る。
そして、午後8時。この日も面会を求めてきた松平内大臣秘書官長と
川崎別荘で会う。
松平は、阿南陸相が自決した結果、鈴木内閣は総辞職し、各大臣の辞表を
既に陛下に奉呈したことを話す。そして木戸内大臣の伝言として
「天皇陛下は時局を非常に心配され、陛下のご内意は、鈴木内閣の後継を
東久邇宮になさるお考えである」と伝えた。
さらに前夜の将校たちによる反乱の一件も報告した。今重臣たちには
軍部を抑える力はなく、首相になろうとする者もいないため、皇族から
首相を出す以外に方法はなかった。
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より