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[転載]続き 「皇族の三人や五人死ね」 終戦と皇族

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続き 「皇族の三人や五人死ね」
 
 
竹田宮は学習院から陸軍幼年学校に上がり、寮生活で「床を上げることから、
靴の掃除まで全部やる。自立の精神が生まれ、甘えがなくなった」ことで、
皇族として特別な扱いをされることに「反抗的な気分を抱いた」と語っている。

昌子内親王は 明治天皇の皇女として育てられただけあり、気骨ある母親で、
子育てに関して献身的だったという。恒徳は昌子内親王について後年次の
ように語った。

「なかなかピチッとしていました。やさしくもしてくれたけどね、非常に怖いことも
あったです(笑)。父のほうが、むしろあまり怖くなかった。それに、父は早く亡く
なったもんですからね。母に叱られることが多かったわけです(笑)。
しかし可愛がってもくれ、毎日おやつはいただきましたし、食事はいつも
一緒でした」
(『日本の肖像』第一巻)

明治時代以降、日本は近代国家を建設するために「富国強兵」を掲げていた。
皇族男子は明治天皇の思召により原則として軍人となることが義務づけられて
いた。軍の学校に進学して、軍人としての能力や功績などにはかかわりなく
当然のように規定の範囲内で最も早く進級していた。軍人になった皇族男子
たちは、天皇に忠誠を誓って国家のために命を捧げた。

元帥になった皇族には、陸軍では小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王、
伏見宮貞愛(ふしのみやさだなる)親王、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)
親王、久邇宮邦彦(くによし)王・梨本宮守正(なしもとのみやみやもりまさ)王
らが挙げられる。

特に閑院宮載仁親王は昭和6年(1931)から15年まで参謀総長を務めていた。
また海軍では昭和7年(1932)から16年(1941)まで軍令部総長(軍令部長)を
務めた伏見宮博恭(ふしのみやひろやす)王が挙げられる。この頃、男子皇族は
大日本帝国憲法下で衆議院と並んで帝国議会を構成した立法機関、貴族院の
議員となることを原則としていた。しかし、軍人であるがゆえに議会には出席
しないのが慣例となっていた。

また親王は天皇の最高諮問機関である枢密院会議に出席することができる
ことになっていたのだが、同じ理由から会議への出席を控えていた。「男子皇族
は軍人となって政治に関与すべきではない」という 明治天皇の思召による
ものである。男子皇族は間もなく敗戦によって予備役編入となって軍籍を離れ、
また貴族院議員も辞職することになる。

男子皇族は 天皇の親族であることから、天皇に準じて敬われていた。
皇族を危険に晒すことは畏れ多いと考えられる一方、多くの皇族は軍人と
しての職務に忠実であり、中には前線に配置されることを強く望む皇族もあった。
また、弾雨をかいくぐり生還した皇族もあれば、殲滅戦を指揮して壮絶なる
戦死を遂げた皇族もあったのだ。

そして皇族は終戦時に最もその力を発揮した。終戦による混乱が極力抑え
られたのは皇族の決死の行動によるものが大きい。




                                          竹田恒泰著  「皇族たちの真実」より


転載元: サイタニのブログ


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