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Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
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[転載]「宮田参謀」という偽名 「終戦と皇族」

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「宮田参謀」という偽名
 
一方、竹田宮恒徳王も皇族として特別扱いされることに抵抗した一人である。
父恒久王が日露戦争に従軍したとき、馬ですぐ隣をすんでいた南部利祥
(としなが)少尉〔旧盛岡藩主南部伯爵家当主〕が敵弾を受けて戦死した。
恒徳王は弾雨の中から生還したこの話を父から聞かされて育ったのだった。
恒久王は日本に凱旋した後、家に南部少尉の写真を飾って祀っていたという。

恒徳王は昭和13年(1938)5月30日に陸軍大学校を卒業して、日中戦線の
第一線の中隊長を志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵十四連隊
第三中隊長に任命された。竹田宮は光子妃を伴い、モンゴルに繋がるホロン
バイルの大草原へと赴任し、間もなく黄河北岸にある帰徳付近に進んだが、
このとき前線への出勤を前にして、竹田宮だけ内地〔日本国内のこと〕に戻す
動きがあった。納得できなかった宮は東京にいる陸軍省の人事局長と電話で
激しく口論した末に、希望が受け入れられ、中隊長として戦地に赴くことになった。

かくして竹田宮は第一線に立つことになったのだが、戦闘に加わるならば
皇族の身分を隠した方がよいということになり、「竹田宮」をひっくり返し、
「竹」を「武」に替えて「宮田武」という名前を使うことにした。以降、竹田宮の
隊は「宮田中隊」と呼ばれ、また参謀になってからは「宮田参謀」で通した。
日本軍の中でもごく一部の特定の者以外は宮田参謀が皇族の竹田宮で
あることは知らなかったという。ここで竹田宮は初めて敵弾をくぐる経験をする。
そして後に「初めて自分に向けて弾が飛んできたときの気持ちは全くいいもの
ではなかった」と語った。

昭和17年、フィリピンの米軍はバターン半島へ撤退し、マッカーサー司令部は
コレヒドール要塞に立てこもっていた。そのとき宮田参謀は数人の参謀とともに
プロペラ機でバターン半島からコレヒドール上空を飛んで戦況を視察したのだが、
終戦後、恒徳が連合国最高司令官総司令部(通称GHQ、以下「総司令部」と
いう)情報部長のウィロビー少将に会って「はじめまして」と挨拶をすると、
ウィロビー少将は「はじめてではない」と一言い、恒徳が納得のいかない顔を
すると、少将は「1942年(昭和17年)の初めに、あなたは飛行機でコレヒドールの
上空を飛んだでしょう。その飛行機には赤い吹き流しがついていた。そのとき
あなたに会いましたよ」と言って笑った。

確かに宮田参謀が乗った飛行機には味方から撃たれないように赤い吹き流し
がつけられていた。当時竹田宮は一貫して「宮田参謀」で通していたのだが、
竹田宮=宮田参謀ということはかなり早い段階で米軍には知られていたと
いうことだ。竹田宮は終戦になってから、当時の米軍の諜報活動の凄さを
思い知らされたのだった。

ウィロビー少将は続けた。「マッカーサー元帥は、エンペラーのお使いが
ここまで飛んできたということは、日本軍がもうはっきりと自信を持ってきた
証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだ」と言う。
マッカーサー元帥は、ただの一参謀として視察に来た竹田宮を、皇族として
お使いに来たと理解したのだった。竹田宮がコレヒドール上空を飛んだ
数日後にマッカーサー元帥は潜水艦でコレヒドールを脱出している。



                                   竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より



転載元: サイタニのブログ


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