パイロツトの壮絶な死
19日、やはり奉天はソ連軍に占拠され、通化から出てきた溥儀皇帝は奉天
飛行場でソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリアに送られてしまう。
竹田宮が皇帝に会うべく奉天に戻っていたら、同様の運命を辿っていた
ことであろう。
シベリアに抑留された溥儀皇帝は、その後昭和21年(1946)に東京裁判に証人
として出廷、1950年に身柄を中国に引き渡される。1959年に特赦で出所が
認められて35年ぶりに北京に戻り、北京植物園に勤務し、1967年に61歳で
波乱の生涯を閉じることになる。
竹田宮が関東軍へ聖旨を伝達するに当たり、宮が中国大陸の上空に差し
かかってから朝鮮半島に帰るまでの間、四機の戦闘機「隼」が編隊を組んで
宮の搭乗機を終始護衛していた。その搭乗員はいずれも若く優秀なパイロットで
あった。
竹田宮が本国に戻るに当たって、宮は厚く礼を述べ、その一人一人と堅い握手
を交わし「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に
尽してくれ」と言って別れた。しかし、彼らは間もなく壮絶な最期を遂げることになる
。四人のパイロットは奉天飛行場で翼を休めるソ連機を目撃し、奉天が既に
ソ連軍に占拠されていることを悟った。奉天飛行場で帰りを待っていた羽
(はね)飛行団長の島田安也中佐は、そのときの様子を次のように話している。
「四機は超低空で入って来て転回し、もう一度それを繰り返してから、
三度目に飛行場のど真ん中で急上昇に移った。ほぼ垂直に上りつめた
四機は、なんと編隊を組んだまま、真っ逆さまに空港中央に突っ込んで、
自爆した」
(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』に所収)
(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』に所収)
四人のリーダーである鎌田正邦(かまたまさくに)大尉が20歳、他の三人は
21歳前後という若さだった。その壮絶な自爆を間近に見たソ連軍の指揮官は、
目を丸くして驚き、側にいた日本の将校が「日本武士道には、戦いに
敗れた際、腹を切る習わしがある。これこそパイロットの切腹ですと
答えたと伝えられている
。
8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命することができた。そして南方軍に
8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命することができた。そして南方軍に
出かけた閑院宮春仁王と、支那派遣軍に出かけた朝香宮鳩彦王も任務を
終えて無事に帰還する。この事実は、8月23日付の新聞で報じられた。
「三殿下、現地へ特派聖旨、停戦の大命御伝達大本営発表〈中略〉陸軍少将
春仁王を南方に、陸軍中佐孚彦王を支那に、陸軍中佐恒徳王を満州に特派、
各陸海軍最高指揮官に対し夫々聖旨及停戦に関する大命を伝達せしめられ
たり」(『朝日新聞』昭和20年8月23日付、1面トップ)
〔「陸軍中佐孚彦王」は「陸軍大将鳩彦王」の誤り〕
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
〔「陸軍中佐孚彦王」は「陸軍大将鳩彦王」の誤り〕
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
注:4人のパイロットの御冥福を祈ります。