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学校で教えない歴史(日本人ならば読んでおきたい乃木大将の訓示)
子供の頃に遊んだ「だるまさんがころんだ」というのがあります。
「だるまさんがころんだ」と鬼は10を数えますが、ある地域ではこれを「のぎさんはえらいひと」と数えているのです。
また、ある人が乃木大将に「武士道とは如何なるものでありましょうか」と尋ねたところ、「武士道は言葉ではない」と答えました。
戦前の日本人は乃木大将に「明治の精神」を見出し、それを見出した時に乃木大将への愛惜の情となっていったのかも知れません。乃木大将は日本人が最も好むタイプの名将でありましょう。
乃木大将が日露戦に出征する前日、自宅で送別の宴をした時、招かれた親類縁者に静子夫人の手料理が出されました。送別の宴半ばに乃木大将は夫人に遺言を言い渡しました。
「さて、勝典、保典、そして自分の3人とも戦場へ向う以上、生きて還る事はまずあるまい。3人のうち誰が真先に討死をしても、戦争が終るまでは葬いをしてくれるな。何れ3人の遺骨が揃った処で、親子3人一緒に柩を出してくれ、よいか」
夫人は動ずる色もなく「はい、仰せを守ります」と言ったのです。
この夫妻の態度に親族の人たちは涙ぐんだといいます。しかも、この日はちょうど日露戦の南山の激戦の日でした。この時、日本軍の死傷者は4300名で、この中に乃木大将の長男・勝典がいたのです。敵弾により重傷を負い、野戦病院に担ぎ込まれましたが、まもなく息を引きとったのです。乃木大将の出発と僅か1日違いでした。
乃木大将の長男勝典と次男保典 はともに日露戦で戦死
日露戦後、乃木大将は難攻不落の旅順を落とした英雄として、長野師範学校で講演を求められました。この時、乃木は演壇に登らず、その場に立ったまま、「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とひとこと言って絶句し、涙を流し続けました。これを見た生徒や教師らも泣いたといいます。乃木大将という人間は、少しも功を誇ることなく、多数の将兵を死なせた責任を痛感して慟哭する、その姿に多くの人々が感動したのです。
明治40年、そんな乃木大将を明治天皇は学習院長に任じます。そして翌年には裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院初等科に入学されました。明治天皇が乃木大将を学習院長に任じたのは、皇孫の教育を託せるのは乃木以外にいないとお考えになったからです。
月日も経ち、乃木大将が学習院長として最後のお別れの講義を小学生にされた時に、乃木大将が生徒たちに「日本はどこにある?」と質問されました。3、4名が「東洋の東側」「緯度何度」といった地理的な返事をしたのを聞かれて、乃木大将は「それぞれに間違いはない」、そして自分の胸を叩いて「本当はここにあるんだよ」とおっしゃって、静かに壇上を降りて、学習院を去って行かれましたのでした。
【乃木大将が学習院院長の時に、学習院初等学科学生に与えた訓示】
1 口を結べ。口を開いて居るような人間は心に締りがない
2 眼の注ぎ方に注意せよ。始終キョロキョロしているのは、心の定まらない証拠である
3 敬礼の時は先方をよく注視せよ
4 自分の家の紋所、家柄、先祖の事はよく聞いて忘れぬ様にして置け。先祖の祭は大切であるぞ
5 男子は男らしくしなくてはいかん。弁当の風呂敷でも、赤いのや美しい模様のあるのを喜ぶ様では駄目だ
6 決して贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない
7 人力車には成るべく乗るな。家で人力車をよこしても乗らないで帰る様にせよ
8 寒中水で顔を洗うものは幾人あるか。湯で洗う様ではいかぬ
9 寒い時は暑いと思い、暑い時は寒いと思え
10 破れた着物をそのまま着て居るのは恥だが、そこを継ぎをして縫って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない
11 恥を知れ。道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣に劣る
12 健康の時は無理の出来るように体を鍛錬せよ。けれども一旦病気になったら医者の云う事をよく聞け
13 洋服や靴は大きく作れ。格好などかまうな
14 学習院の学生は成るだけ陸海軍人になれとは、陛下の御沙汰であるから、体の丈夫なものは成るべく軍人にならなければならぬ。けれども生まれつき体の弱い者もあり、又種々の事情でなれぬ者もあろう。是も仕方がないが、何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、あるいは国の害になる様な人間は死んで仕舞った方がよいのである
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