拙稿は一昨年4月にエントリーした記事です。
一部加筆して再エントリーします。
先人の足跡を蔑ろにし、消していく現世の日本人、現在の価値観こそがすべてだという風潮に疑問を感じ、危惧するのは筆者だけでしょうか?
躾がなされていない大人、子供が目につく昨今です。
人格形成の基礎は、しつけによってつくられます。家庭でのしっかりしたしつけができていないと、学校や社会における教育の効果はあがらないのです。
かっての日本は「しつけ」が行き、礼節を重んじる国でした。
しかし、多発する犯罪、定まらぬ政道、守銭奴と化した今日の日本の実態は、しつけという根本的なところから、取り組まなければならないと思うのです。
しつけは、漢字で「躾」と書きます。この文字は、日本人がつくった文字で、シナから輸入した文字ではありません。
身に美しいと書きます。美しい身柄と書いて、しつけと読みます。
きもの文化の国であった我国において、きものを縫うときに、型が崩れないように下縫いをします。それがしつけです。人も同じように、しつけをしっかりしないと、人間としての型が崩れてしまい、型が定まらないのです。
しつけは家庭で勿論、親が行うものです。親がしつけをしないと、子供に人間としての基礎を築くことができないうえに、しつけをしなければ、人間は動物とそう変わらません。しつけをしないと、動物と同じように好きなように食べ、排泄する。小便や大便も、親が何十回、何百回と教えて、みなちゃんとできるようになります。子供を人間らしく育てることが、しつけなのです。
自分の家の中だけなら、言葉や行儀が悪くても、親子・家族同士は親しい関係だから、それでも済んでしまいます。子供は3歳くらいになると、行動半径が広がり、家の外でほかの子供や大人に接することが多くなると、社会の決め事や慣習を身につけられなければ、社会に適応できないのです。
親が、やっていいことと悪いことを教える。子供が社会生活に適応できるように、基本的な生活習慣を身につけさせる。言葉遣いや、座り方、はしの上げ下げ等、行儀を良くすること。こうした基本を身につけていないと、社会のルールを身につけることもできません。公共性が育たない。だから、しつけには、公共性をもった家庭教育という意味があるのです。
我国のことわざに、「三つ子の魂百までも」があります。
3歳までに基礎・土台を作っていないと、やり直しは難しいとされています。しつけは「つ」のつくうちに行うことが大切と言われています。「ひとつ、ふたつ」と年を数えますが、「九つ」つまり9歳までに、しっかりしつけをしていないと、その後は容易でなく、子供の身につきません。これは、親や教育者が経験の中で、実感していることである。こうした経験知が軽視されると、しつけはうまくいきません。
冒頭でも述べましたが、家庭教育という基礎の上に、学校教育、社会教育が積みあがっていくのです。基礎ができていないと、学校教育、社会教育は効果が上がらりません。
高度成長期以降、乳幼児を保育所に預けて働きに出る母親が多くなっています。財界が求め、行政が支援している有様です。これは劣子化を助長するものとなるのです。これこそ戦後、占領期の日本で行われた、日本人を精神的に劣化させる政策を完成させるような自滅行為といえるでしょう。
人間関係は、人と人とのコミュニケーションによって成り立ち、社会で生活するには、コミュニケーションができなくてはなりません。その基礎となるのが、挨拶と返事、片付けです。
挨拶は、自分から他者に呼びかけることであり、返事は、他者から声をかけられたら、これに応じることである。これらは、コミュニケーションの基本です。片付けは、他の人に配慮してものを扱うことです。
コミュニケーションとは、意思の疎通であり、思っていること、感じていることを伝え合うことであり、心の通い合いです。人の心は、心の通い合いを繰り返す中で、成長し、また心の健全さが維持されるのです。
挨拶・返事・片付けは、本質的に共同的・相助的な存在である人間が、互いに心を通い合わせながら社会生活をするうえで、最も大切な行いなのです。
重要になるのが、親の愛情と責任です。子供が社会で一人前にやっていけるように、愛情と責任をもって育てようという心が大切です。
自分を育ててくれた親に感謝し、親のまた親である先祖に感謝の気持ちを持つことが必要なのです。そういう気持ちを持つと、今度は自分が自分の子供に親から学んだものを伝え、一人前の人間に育てようという愛情と責任がわいてくるのです。
しかし、この大切なしつけのできない親が増えています。しつけを実践するには、しつけのできる親を育てる必要があります。
大東亜戦争後、我国は、日本の伝統を否定しました。親は子育ての規範を失い、アメリカから子供中心主義の教育論が入ってきました。子供がどうしたいか、子供の意思を尊重し、親は干渉しないのがよいとされ、自由放任の教育がよしとされた。親が子供に押し付けるのはよくないと言う考え方が広がった。アメリカでは、二十数年以上前から、この間違いに気づき、方向転換をしています。日本では今なお、友達のような親でありたいなどと言って、しつけを軽んじている人が多いことに国の将来を危惧します。
戦前は大家族でしたから、自然と親のあり方が受け継がれました。今日の社会では、核家族化が進み、祖父母と同居せず、自分が親になったとき、どうしたらいいか学べないような環境にしてしまい、親になるための勉強、親が親らしくできるようになるための訓練、言い換えると「親学(おやがく)」の必要性が唱えられている有様です。
かって会津藩における藩士の子弟を教育する組織に什(じゅう)がありました。
什の掟は次のようなものでした。
- 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
- 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
- 三、虚言をいふ事はなりませぬ
- 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
- 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
- 六、戸外で物を食べてはなりませぬ
- 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
誇り高い武士道精神は「躾」より生まれたのです。
「ならぬことはならぬものです」の会津藩士の心構えを定めた「什の掟(じゅうのおきて)」は、平成23年度の小学校6年・社会科の教科書に採用されました。
「人づくり」こそ地域発展の礎であるという考えは、時代が変わっても「あいづっこ宣言」として会津の教育に受け継がれています。
我国の惨状は、相当部分を共同性・相助性の急速な低下によります。共同性・相助性の低下は、個人主義の進展と相即し、自己中心・自己本位の態度や、わがまま・我欲が横行しています。最も顕著な現象が、家庭や子供に表われています。
我国を立て直すには、しつけからやり直す必要があります。それには、しつけのできる親を育てる必要があり、しつけのできる親や大人になる必要がある。親学こそ、現代社会に最も求められているものではないでしょうか?
大変な時間を要しますが、これは乗り越えねばならぬ課題でもあるのです。
そして最も重要なことは、日本人が日本人としての誇りを取り戻すことです。そして、日本人の子育ての伝統の良い部分を、自信をもって取り戻すことです。江戸時代や明治時代に日本に来た外国人は、日本の子育ての優れていることに驚き、日本人の礼儀正しさや誠実さを感動をもって記している。私たちの先祖・先達は、立派な子育てをしていたのです。
我国の精神は、家庭においては、親が子を愛情をもって育て、子どもは親に感謝して、親が老いても大切にし、夫婦が互いの特徴を認め合い、また欠点を補い合って協力し、親子一体、夫婦一体であることでした。
社会にあっては、人と人が助け合い、共存共栄を図り、祖先・現世の我々・子孫という生命のつながりを自覚し、互いに役割を果たす、個人主義・自己中心・自己本位は、日本のお国柄、精神とは大きく異なっているのです。
子育てにおいても、自分の子どもを単に自分の子どもとしてだけでなく、世の中で役に立つ人間、祖国日本を担う人間を育てるという願いを持って育て、それが、私たちの先祖が心がけてきた教育であり、伝統なのです。
我国を立て直すため、家庭でのしつけからやり直し、教える親や大人も、それを実行することで自分も変わり、自己研鑽を積み、子供に教えることを通じて、自分も親として、大人としての自覚が強くし、教育とは共育、共に育つ行ないであることを自覚するのです。
幼児期の子には、しっかりしたしつけをし、少年期の子には、道徳を教え、誇りを育てる教育をしましょう。
何も新しい試みでもありません。
かっての日本人に戻ること・・・・先祖返りをする以外道はありません。
古の明徳を明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。
其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉(ととの)う。
其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す。
其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。
其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
知を致すは物に格(いた)るに在り。
天皇彌榮(すめらぎいやさか)