2009/6/26(金) 午後 9:33雑感練習用 Yahoo!ブックマークに登録
(冒頭写真は、すなべしょう先生からお借りしました)
御来訪感謝申し上げます。
しばらくぶりに2日続けて更新をサボってしまいました。
政界は何やら熱い動きが出始めているようですが、不肖敬天愛人としてはさほど関心が行かず、真夏が近くづくに連れ、ふと思い出した曲があったので、ユーチューヴから引っ張り出して来ました。
この「八月の濡れた砂」は、1971年に発表された日活映画の題名と主題曲だったのですから、もう38年前の事になります。
まだ生まれていなかった方も多いかと存じます。
私も中学3年で、胸がきゅんと痛くなるような「夏の思い出」は想像の世界でしかなかった頃でもあります。
映画そのものはあまりパッとせず、主題歌だけが当時TBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」のキャスター林美雄の個人的な思い入れでよく流れていたので、同世代にとっては青春時代の思い出の曲になっている唄であります。
この隠れた名曲を唄っているのは現井上陽水夫人の石川セリです。
映画そのものはあまりパッとせず、主題歌だけが当時TBSラジオの深夜放送「パックインミュージック」のキャスター林美雄の個人的な思い入れでよく流れていたので、同世代にとっては青春時代の思い出の曲になっている唄であります。
この隠れた名曲を唄っているのは現井上陽水夫人の石川セリです。
さて記事の本題に入りますが、前回の記事でも取り上げた宮崎県の東国原知事の爆弾的な発言から始まって、それに呼応するかのように大阪府の橋下知事や中田横浜市長の地方自体首長から国政への物言いも含めて、連日テレビ報道などでも騒ぎになっている政界の状況について、あまり興味を感じられずにおります。
民主党が主張する「官僚政治の打破」にしろ、橋下知事らが声高に叫ぶ「地方分権の推進」にしろ、現在の日本の政治と社会の様々な問題の本質を捉えたものではないと考えるからです。
確かに、日本社会の現況は国民にとって非常に厳しいものであり、将来を考える余裕すらなく、今をどう生きるかに四苦八苦している国民が圧倒的に多い状況にあります。
大多数の国民にとって一番の関心事は「自分たちの生活」であります。
自分たちの生活が現在未来と安定している状況であれば、国民は安心した生活を送ることができ、政治に不満を持つ者もいなくなりますが、今現在の実質収入が低下して行く中で、場合によっては現役で働いている人達の収入より年金で生活している人の方が収入が多いという考えられない逆転現象も起きています。
しかも、その人達が将来老齢になって年金のお世話になる頃は今の年金受給実績を大幅に下回ることも確実なものになっています。
そんな中で、藁にもすがりたい思いの国民が淡い期待を寄せている民主党も「友愛政治」という訳も分からない雲を掴んだようなスローガンを前面に出して「国民生活第一」などと言いながら、具体的且つ実行性の見込める政策を何一つ出せずにいます。
先日、あるテレビ番組で「政権交代によって日本社会は変るか?」と街の人達にアンケートを取りましたが、結果、70%の人が「何も変わらない」という回答でした。
冷静且つ沈着な大多数の日本国民は、マスコミが「日本社会を変えるためにも政権交代が必須である!」と扇動しても、皆さんは案外惑わされず、与野党問わず既成政党の無能無策ぶりを見抜いているのであります。
国民の大多数にとって「官僚政治打破」も「地方主権推進」もどうでも良い事なのです。
要は、どうしたら自分たちと自分たちの孫子は食って行けるのか?の基本的な答えを求めているのであります。
しかし、民主党のようにその具体的な答えを持っていない烏合の集まりは抽象的な矜持に過ぎない美辞麗句を駆使して国民を煙に巻こうとして、まるで世界最悪国家の北朝鮮が「主体思想」をイデオロギーの武器として人民を洗脳している独裁強権政治を彷彿させるイメージを与えていることに気付いていません。
その匂いを敏感に感じ取った東国原知事は「民主党はファシスト」と喝破したのであります。
私は今の日本の閉塞した状況は、国の体制のあり方や経済政策などというのは本質ではなく、根本は国としての誇りと日本人としての誇りの欠如にあると思っています。
今までも再三再四申し上げて来ましたが、戦後、日本と日本人は「世界の悪者だった」という認識を散々押付けられ、対外的に物言うことも許されない環境に置かれ、ひたすら贖罪に努める日々を送って来ました。
「偲び難きを偲び、堪え難きを堪え」国際社会に認められることだけを一念に国民は頑張ってきました。
そのために、近隣のならず者達に本来なれば謂れの無いひどい仕打ちに遭おうが、アメリカの度重なる不等な要求も甘受して、先の大戦での敗戦国として谷底に落とされた「日本国の信頼」を回復するために踏ん張って来たのであります。
しかし、気付いてみれば「働けど働けど我が暮らし良くならず、ただひたすら戦前の属国・領土と戦勝国に奉仕するのみ」という臥薪嘗胆の日々から抜けきることができないままに来てしまったのであります。
果たして、戦後63年間の我々日本人の「塗炭の苦しみは何だったのか?」という怨念にも似た素朴な疑念にハッキリとした明確な答えを示さなくては、国民の政治への信頼を根本的に回復することはできないであろうと考えます。
国の体制や制度ではなく、国の根幹(国体)に対する認識と見直しを問われているのではないか!と考えるのです。
つまり、自虐史観からの脱却と国の誇りと自信の回復であります。
この根っ子となる問題が解決されない限り、国体を守り国民の安寧平和を実現できる体制と政策が生まれる訳がないと申し上げたいのであります。
今まで、日本社会の閉塞状態を「制度改革」「構造改革」という本質から逃げた皮相的な対策で解決しようとして来ましたが、それは決して国民が心底から望むものではなかったと思っています。
それは単にその時々のめくら騙しの怪しい空気に乗せられただけのことであります。
今現実的には国民の大半は、自民にしろ民主にしろその他の政党にしろ、『支持よりも不支持』の立場に立っているのです。
とにかく、政治の場に立つ者たちに、真に国を憂い国体守護を真剣に考える、つまり国家観を持っている者はほぼ絶滅状態といっても過言ではないと案じるのであります。
案外、国をどうするべきか?の答えを持っているのは国民の側かもしれません。
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