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安倍晋三首相は1月26日、訪問先のインドの首都ニューデリーの「共和国記念日」に主賓で招かれました。この主賓は各国首脳から一人選ばれるのですが、今年は安部総理が選ばれました。この記念日を祝う行事はインドのテレビやネットで生中継されインド国民の多くが視聴されました。
今回の訪印は海洋安全保障での連携強化でシナの台頭を封じ、より一層の日印の結びつきを示すことができました。
これはもちろん、我々の先人たちの偉業があったからこそであります。
安倍総理は平成19年、第一次安倍内閣の訪印時にインドの国会で演説されました。その時、インドの報道は安倍総理の演説の全文を掲載してインド国民に広く知らせました。しかし、日本ではほとんど取り上げられることはありませんでした。
この演説内容を知って今回の訪印を見るとより一層、日印の深さを知ることでしょう。以下、一部を掲載します。
私とシン首相とは、日本とインドの関係こそは「世界で最も可能性を秘めた二国間関係である」と、心から信じているということです。
「強いインドは日本の利益であり、強い日本はインドの利益である」という捉え方においても、二人は完全な一致を見ています。
私の祖父・岸信介は、今からちょうど50年前、日本の総理大臣として初めて貴国を訪問しました。時のネルー首相は数万の民衆を集めた野外集会に岸を連れ出し、「この人が自分の尊敬する国日本から来た首相である」と力強い紹介をしたのだと、私は祖父の膝下、聞かされました。敗戦国の指導者として、よほど嬉しかったに違いありません。
また岸は、日本政府として戦後最初のODAを実施した首相です。まだ貧しかった日本は名誉にかけてもODAを出したいと考えました。この時それを受けてくれた国が、貴国、インドでありました。このことも、祖父は忘れておりませんでした。
私は皆様が、日本に原爆が落とされた日、必ず決まって祈りを捧げてくれていることを知っています。それから皆様は、代を継いで、今まで四頭の象を日本の子供たちにお贈りくださっています。
ネルー首相がくださったのは、お嬢さんの名前をつけた「インディラ」という名前の象でした。その後合計三頭の象を、インド政府は日本の動物園に寄付してくださるのですが、それぞれの名前はどれも忘れがたいものです。
「アーシャ(希望)」、「ダヤー(慈愛)」、そして「スーリヤ(太陽)」というのです。最後のスーリヤがやって来たのは、2001年の5月でした。日本が不況から脱しようともがき、苦しんでいるその最中、日本の「陽はまた上る」と言ってくれたのです。これらすべてに対し、私は日本国民になり代わり、お礼を申し上げます。(掲載ここまで)
この時、インドの国会議員全員が起立して、大きな拍手でこの演説に応えました。
その後、安倍総理はカルカッタ市内のチャンドラ・ボース記念館に行き、歓迎を受ける中、このように言いました。
「イギリス統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」
これに対し、ボース将軍の姪クリシュナ・ボースさんはこう言いました。
「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるのなら、私たちもボースがイギリスの植民地支配に抵抗するためにインド国民軍を組織したことを支援してくれたのが日本だったことを忘れることはない」・・・・・・。
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昭和18年6月、東京に来たインドのチャンドラ・ボースは日本国民に向けてこのような挨拶を送りました。
「日本の皆さん、今から40年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させました。
このニュースが全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆いました。いたる所で旅順攻撃や奉天大会戦の勇壮な話で持ちきりでした。
私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し、尊敬しました。元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれが出来ず、その代わりに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾ったものでした。その間、インドの革命家たちは、なぜ日本が強大国をやっつけることが出来たのか、日本を訪問し始めました。
日本はこの度、インドの旧敵イギリスに対して宣戦しました。日本は私たちインド人に対して、独立のための絶好の機会を与えました。
私たちはそれを自覚し感謝しています。一度この機会を逃せば、今後百年以上訪れることはないのでしょう。勝利は我々のものであり、インドは独立することを確信しています」
この年の10月にチャンドラ・ボースは「自由インド仮政府」を樹立し、英・米に対して宣戦布告します。そして、同年11月5日に開催された大東亜会議に「自由インド仮政府」としてオブザーバーで参加します。
その後、インパール作戦でインド国民軍(INA)は日本軍とともに戦い、兵力6千のうち4百名が戦死しました。
日本軍がインパールの南西の2926高地まで進撃した時、日本兵の赤い血を流した丘としてここをレッド・ヒルと呼んでいます。結局、日本軍は補給なく、戦死が続き、撤退やむなきに至ります。
昭和52年、現地の人たちがレッド・ヒルと名付けたこの丘のふもとに日本兵の慰霊塔を建てました。この慰霊塔建立を推進したロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこのように言いました。
「私たちは日本兵が、インドの解放のために戦ってくれたことをよく知っていました。私たちは食料や衣料を喜んで提供しました。
ところがイギリス軍がそれを知って阻止しました。日本軍は飢餓に追い込まれましたが、勇敢に戦い、次々に戦死してゆきました。この勇ましい行為はすべてインド独立のためだったのです。
私たちはいつまでもこの勇戦を後の世まで伝えていこうと思って慰霊塔を建てました。この塔は日本軍人へのお礼と独立インドのシンボルにしたいのです。そのため村民で毎年慰霊祭を行っています」
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