Quantcast
Channel: 電脳工廠・兵器(武器,弾薬)庫
Viewing all articles
Browse latest Browse all 8971

[転載]韓国政府が日本語の「竹島」HPと動画を作って公開「独島は大韓民国の領土である事実をまだ知らずにいる、一部の日本人の理解を助けるためです」竹島の歴史を知っている中学生でも論破できる捏造だらけの内容だ!

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
「竹島は日本領!」という方はクリックを<(_ _)>
 
 
韓国・外交部(外務省に相当)、日本語の独島HP・動画を公開

<アンカー>
我が方の政府が、日本語の独島(トクド)ホームページと動画を作って公開しました。独島は大韓民国の領土である事実をまだ知らずにいる、一部の日本人の理解を助けるためです。

イメージ 6

イム・チァンジョン記者です。

<記者>
日本政府が独島の領有権を主張するために開設したホームページです。

地図と動画などを通じて、独島が日本の領土という主張を世界に広報するためのもので、来月には英語版も登場する予定です。

通常国会の演説で安倍総理に続いて岸田外相は、再び独島を取り上げて挑発に出ました。

<岸田(日・外相=昨日の国会演説)>
「わが国の固有の領土である竹島については、引き続きわが国の主張をしっかりと伝え、粘り強く対応します」

韓国が一番重要な隣国としながら、関係復元のために努力をすると言った安倍総理の演説を台無しにする発言です。

日本の挑発が続くと、我が方の外交部(日本の外務省に相当)は日本語の独島動画とホームページを公開しました。

「1145年に完成した三国史記を含め、韓国の数多くの古文献と地図は、独島について古来から韓国の領土として記録しています」

外交部は、「今後とも日本の独島の領有権挑発に対し、厳重で断固としてと対応する」とし、多国語の動画を追加製作するなど、対外広報活動を継続的に推進して行く予定であると明らかにしました。
2014-01-25 NAVER/SBS(韓国語)
 
>我が方の政府が、日本語の独島(トクド)ホームページと動画を作って公開しました。独島は大韓民国の領土である事実をまだ知らずにいる、一部の日本人の理解を助けるためです。
 
バカ^^
 
この動画は「竹島」について、これまで韓国政府が主張していることを約4分間にまとめたものですが、竹島の歴史を知っていれば中学生でも論破できる内容です。
 
【動画】
 
大韓民国の美しい領土、独島
 
韓国政府は、動画の冒頭に日露戦争のシーンを入れていますが、これは日韓併合前に竹島を侵略されたと主張しているからです。
 
日本が竹島を島根県に編入したのは、日露戦争の最中の1905年です。
 
日本が日露戦争の勝利のために戦略的価値がある竹島を侵略したなどと主張する学者がいますが、事実ではありません。
 
【竹島に関する日韓・日露史】
 
19042     日露戦争
19042     日韓議定書
19048     第一次日韓協約
190410   バルチック艦隊、リバウ軍港を出航
19051     旅順陥落
19052     竹島を島根県に編入
19055     日本海海戦
19059     ポーツマス条約調印
190511   第二次日韓協約
190512   韓国総監府設置(初代統監伊藤博文)
191008   韓国併合
 
韓国の竹島広報冊子「韓国の美しい島、独島」は、「日本政府が1904年の第一次韓日協約締結などを通じ段階的に侵略を行い、独島が初めの犠牲になった」と主張しています。
 
1904年8月23日、日本と韓国は「第一次日韓協約」を締結しました。
 
韓国は貧しさを極め、国防などでも国家が危機的状況だったので、日本政府の推薦者が財政と外交の顧問に就きました。
 
反日勢力や歴史を知らない日本人は、「韓国の外交権は制約を受けて、抗議できなかった」と主張していますが、事実ではありません。
 
イメージ 4
 
1902年1月30日に調印・発効した、「日英同盟(日本と英国との軍事同盟)」の、1905年8月12日の「第二次日英同盟第三条」の条文について、10月に大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難しています。
 
そして、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議をしています。
 
大韓帝国は外交権をもって、日英に対して抗議が可能だったのですから、韓国政府の主張は成り立ちません。
 
 
・明治37(1904)929日中井養三郎は「リヤンコ島領土編入並びに貸下願」を内務、外務、農商務の3大臣に提出したが、52728日には竹島で中渡瀬仁助等隠岐の漁師がアシカ猟をしておりバルチック艦隊の数隻を目撃している
・軍事施設の可能性を指摘されていた仮望楼(見張所)は日本海々戦より後の8月に建設されたことが、海軍資料から確認された
・竹島近くで4隻のロシア艦隊が追撃した日本艦隊に包囲され投降したのは偶然の出来事だった
※結論 日露戦争と竹島の意図的関係は存在しない。
 
韓国政府は、1905年2月22日の日本政府の竹島編入について、「第二次日韓協約で外交権が剥奪された状況で無効だ」とも主張しています。
 
1905年(明治38年)11月17日、日本と韓国は、「第二次日韓協約」を締結しました。
 
第二次日韓協約により、日本は、韓国の外交を監理指揮するとされ、大韓帝国は日本の保護国になりました。
 
1906年2月~4月に韓国は、蔚珍郡竹邊浦に日本海軍が建設した元燈台用地売買に関して、正式に日本の統監府に抗議をして承認させています。
 
韓国が竹島を自国領と認識していたなら、日本政府の竹島編入について、日本政府に対して抗議は可能でした。
 
しかも、日本の竹島編入は第二次日韓協約締結よりも前のことですから、韓国政府の主張は成り立ちません。
 
日韓併合前の1899年「大韓地誌」(大韓帝国の最初の地理の教科書)には、「大韓帝国の領域は、北緯33度15分~42度25分。東経124度30分~130度35分」と書いてあります。
 
イメージ 7
 
竹島は、「東経131度52分」です。
  
1899年は下関条約の4年後で、第一次日韓協約の5年前、第二次日韓協約の6年前です。
 
韓国が他国の影響下にない、完全に独立をしていた時期の教科書です。
 
当時の韓国では、鬱陵島までを韓国の領土として、竹島は韓国の領土としていなかったのです。
 
イメージ 8
韓国にある于山島が描かれている最も古い地図
1481
年に編纂された『東国輿地勝覧』付属の『八道総図』では、鬱陵島の西に于山島が記載されているが、実際には鬱陵島の西にこの様な大きな島は存在しない。
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 11
※各画像右下クリックで拡大できます。
彷徨い続ける韓国にある于山島が描かれる地図の一部。
 
于山国は鬱陵島だけのことで、韓国が竹島と主張する「于山島」は、鬱陵島の約2キロの海上にある「竹嶼(ちくしょ)」、韓国名の「竹島(チュクト)」のことです。
 
イメージ 12
 
韓国の「于山島こそ現在の独島(竹島)」とは、「日本海」のことを「東海」と主張しているのと同じです。
 
つまり、朝鮮に「独島」や「東海」が存在したのであれば、朝鮮の古文献、古地図に「于山島」や「朝鮮海」ではなく、「独島」「東海」と記されたのです。
 
そもそも、「独島」という名称が初めて文献上に記されたのは、1904年の日本の文献です。

松島ニ於テ『リアンコルド』岩實見者ヨリ聽取シタル情報
『リヤンコルド』岩韓人之ヲ獨島ト書シ本邦漁夫等略シテ『リヤンコ』島ト呼称セリ
(『軍艦新高行動日誌』1904925日)

それまで、「独島」という名称は韓国の古文献、古地図になく、韓国の文献に初めて記されたのは1906年のことです。
 
韓国政府の動画には「竹島一件」も取り上げられています。
 
1693年に安竜福(アン・ヨンボク)が日本に密入国をしたことにより、「竹島一件」と呼ばれる鬱陵島をめぐる日本と朝鮮の領有権争いが起きました。
 
韓国は安竜福のことを、江戸時代に日本の松島(現在の竹島)を「于山島」だと主張し、日本に認めさせた最初の人物にしています。
 
韓国は、竹島領有権を日本に認めさせた英雄(将軍)として、鬱陵島には安竜福将軍忠魂碑、居住していた釜山には安龍福将軍像があり、安竜福財団を設立しています。
 
イメージ 3
 
韓国が主張し続けている、安竜福(アン・ヨンボク)の数々の証言に信憑性はありません。
 
江戸時代には鬱陵島を「竹島」と呼び、現在の竹島は「松島」と呼ばれていました。
 
李氏朝鮮は1403年から鬱陵島の空島政策を実施して、朝鮮では同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。
 
日本に密入国した安龍福は、「鬱陵島と朝鮮本土の距離が30里(約12km)、鬱陵島と于山島の距離が50里(約20km)で、鬱陵島から于山島まで船でその日の内に着く」と証言しました。
 
しかし、実際の鬱陵島と朝鮮本土との距離は約140km、鬱陵島と現在の竹島(松島)の距離は約92kmと大きく食い違っている事から、安龍福の証言は嘘です。
 
また、安龍福は鳥取藩主と対座して直訴したと証言しましたが、当時の鳥取藩主は参勤交代で江戸滞在中でした。
 
当時、朝鮮側は「安龍福は漂風の愚民であって政府の関知するところではない」としていました。
 
後の対馬藩の「朝鮮通交大紀」には、安龍福が勝手に日本に提出した文書について、朝鮮側は「妄作の罪あり」としています。
 
対馬藩が朝鮮に宛てた文書には、「本国竹島」と記してあり、日本の領土の島であるという認識を示しています。
 
また、対馬藩の「朝鮮通交大紀」にも、1693年に朝鮮人が「我隠州竹島に来り」と、竹島が幕府直轄領の隠岐に所属することを表明しています。
 
1696年1月に幕府は、「無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。ただ渡海を禁じればよい」と、日本人の鬱陵島への渡海禁止を決定しました。
 
その一方で、竹島への渡航は禁止される事はなく、当時から日本も朝鮮も、竹島を日本の領土だと考えていた事は明白なる事実です。
 
韓国政府は、竹島領有権について安竜福の証言を根拠にする「竹島一件」が、国際法的にも認められないことだと理解していません。
 
安龍福の虚言(備辺司での証言で不自然な点や明かな作り話)
 
•幕府が竹島(現在の鬱陵島)への渡航を禁じる旨を朝鮮の使者に伝えたのは1697年(元禄10年・粛宗23年)の正月だが、幕府が鳥取藩へ渡航禁止を伝えたのは16961月。安龍福が隠岐へ漂着したのは16965月。安龍福は日本人を追いかけて隠岐に漂着したと言っているが、日本人はこの時竹島には渡れない。もし幕府の命令を破り密かに渡っていたとするなら安龍福の言うように処罰されているはずであり、首謀者は当然死罪になっているはずである。しかし、村上家の文書には安龍福が隠岐に漂着して来た時の日本の役人の取調べの様子は細かく記録されているが、村上家や大谷家が処罰された記録は全く記載されておらず、鳥取藩や他の記録にも処罰された記録は全くない。
 
•日本人が松島に住んでいると言ったとある。彼は日本人を追いかけて島に上陸したとしているが、松島は明かに人が住める環境ではない。安龍福は日本人の言う松島のことを全く知らないまま松島を于山島だと思い込んでいる。
 
•松島は于山島で朝鮮領だとあるが、安龍福が日本に来たとき于山島を鬱陵島から北東に50里(約20km)離れた大きな島だと言っている。しかし実際の松島は鬱陵島から東南東に約92kmの地点にある断崖絶壁の小島であり、安龍福は松島の位置や大きさを全く把握していない。また当時の朝鮮の地図にある于山島も鬱陵島の北に描かれており、安龍福の証言以外松島に朝鮮人が来たという記録は全くない。
 
•安龍福は、日本の将軍から鬱陵島と于山島の朝鮮領有の書契をもらっているのに、対馬藩が勝手に朝鮮政府に対し何度も領有権を主張する使者を送って来ているように言っているが、そうではない。対馬藩は幕府の指示に従い鬱陵島の領有交渉を行っていた。(竹島一件)1693年に安龍福が連行されたのをきっかけに鬱陵島の領有権争いが幕府と朝鮮の間で発生したのであり、対馬藩と朝鮮の間で発生したのではない。つまり、そのきっかけとなった漁夫(安龍福)に将軍が鬱陵島や于山島の朝鮮領有を認める書契を出したはずがない。また、連行された異国の一漁夫に一国の将軍が島を手放す書契を渡すはずもない。
 
•安龍福は鳥取藩主と対座して直訴したと言っているが、当時鳥取藩主は参勤交代で江戸滞在中である。対馬藩主の父親がやってきて息子の死罪が免れないと言ったと言っているが、安龍福が連行された時の対馬藩主はその時既に若くして他界しており、その父親も参勤交代で江戸に滞在しており、江戸から出ることはできない。
 
韓国政府が日本語の竹島のホームページと動画を作って公開しましたが、捏造した歴史だらけの内容であり、日本政府は抗議するべきです。
 
江戸時代から「竹島」は日本の領土!
 
と思われた方は、↓クリックをお願いします。↓
 
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

転載元: 近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』


Viewing all articles
Browse latest Browse all 8971

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>