最前線へ飛ぶ皇族たち
皇族男子が日本の降伏を知らされたのは昭和20年8月12日のことだった。
午後3時20分、在京する皇族男子全員が宮中の御文庫附属室に呼ばれた。
午後3時20分、在京する皇族男子全員が宮中の御文庫附属室に呼ばれた。
高松宮、三笠宮、賀陽宮(かやのみや)(恒憲王(つねのりおう)、
邦壽王(くにながおう))、久邇宮(くにのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、
朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)(稔彦王
朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)(稔彦王
(なるひこおう)、盛厚王(もりひろおう))、竹田宮(たけだのみや)、
閑院宮(かんいんのみや)、李王垠(りおうぎん)、李鍵公(りけんこう)
の、各皇族および王公族十三方が沈痛な面持ちで身なりを正す中、
大元帥服を御召になった 昭和天皇が御出ましになり、正面の玉座に
御座りになった。そのときの 昭和天皇の御様子については、東久邇宮は
、「天皇陛下は、お顔の色が悪くて、たいへんにおやつれになり、
非常に神経質になっておられ、胸潰るる思いがした」と記し、また
竹田宮恒徳王(つねよし)は
「天皇陛下は今迄拝したことのない程に緊張された御様子」「しばらく
お目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と後に
記している。
「陛下の御耳に雑音を入れないため」との理由で、戦争中皇族たちは、
天皇に拝謁することが原則的に禁止されていた。昭和天皇の弟宮だけは
天皇に拝謁することが原則的に禁止されていた。昭和天皇の弟宮だけは
参内することが許されていたが、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややす
ひとしんのう)は結核を患って長期間療養をしていたため、天皇の前に
進むことができたのは高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)と三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)だけだった。
またそのほかの皇族が何かの機会に陛下の御目にかかることがあっても、
ほかのことは一切申し上げてはいけないと侍従から注意があったという。
そのため、この日呼ばれた皇族たちは久方ぶりに 天皇の謁を拝した。
天皇の憔悴(しょうすい)なさった御姿を目の当たりにし、目を伏せた
者も多かったという。
また当時侍従長であった藤田尚徳(ふじたひさのり)大将の著した
『侍従長の回想』によると、昭和天皇の体重は通常17貫(約64㎏)
であったが、終戦の時期には15貫(約56㎏)まで御痩せになって
いらっしゃったことが分かる。藤田によるとそれは「激務と御心労、
それに食事の粗末さからくるもの」だという。
参集した皇族たちに対し 昭和天皇から、ポツダム宣言を受諾する
ことにした趣旨について御話があり、(陛下は込み上げるものを、そっと胸に
抑えておられるような御様子で、しかし、不動のご決意を込めて、しっかりと)
「私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。
そこで自分は 明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を
受けて、戦いを止める決心をした。どうか私の心中を了解してくれ、
そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい」
(竹田恒徳『終戦秘話』)
と御言葉を御続けになった。それに対して最年長の梨本宮が代表して、
「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に
「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に
全力を尽します」と奉答した。召された皇族たちは全員軍人であり、
戦争が最悪の局面に達していることを承知していた。
このときの昭和天皇のお姿に接し、皇族たちは次のように思いを綴って
いる。「私は戦争及び終戦の御苦労の結果と、つくづく御同情申上げ、
そしてー 何とかして、陛下の御安心のゆくようにしてあげたいーと、
ひとり心に誓った」(東久邇宮稔彦王)(東久邇稔彦『私の記録』
「ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この
日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた荘厳な
お姿を、私は生涯忘れることができない」(竹田宮恒徳王)(竹田恒徳
『雲の上、下思い出話』)
竹田恒泰著 「皇族たちの真実」より
注:陛下の側に近づけなかったとあるが、真意はわからないが、当時の軍の上層部は
天皇陛下をないがしろにして独断で決めていたと言う事を聞いたことがある。
結局終戦の時はさすがに自分達では決めきらなくて、天皇陛下にお伺いをたてた
ようである。