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[転載]平成の「征韓論」・・伊藤博文を殺したテロ犯人を英雄にするなら国交断絶を!

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平成の「征韓論」・・
 
「伊藤博文」を殺した
 
「極悪非道なテロ犯人」を
 
「英雄」にするなら「国交断絶」を!
 
 
 安倍総理の
「韓国は交渉もできない愚かな国」なかなか的確な表現だろうと思う。
 
話し合いが成立しない相手であることは間違いない。
 
菅官房長官の「安重根は犯罪者」という発言にいきり立ち、世耕官房副長官の「安重根は死刑判決を受けた人物」
 
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                         伊藤博文は、紙幣にものる「日本の英雄」である
 
 
伊藤博文の主な功績です。

・貨幣法の制定。(貨幣社会の確立)
・鉄道開通への尽力。
・教育令の発布。
・大日本帝国憲法の起案、制定。
・内閣制度の導入。初代内閣総理大臣に就任。

安重根石碑で摩擦=韓国、「犯罪者」発言に猛反発―中国も設置前向き

時事通信 11月22日(金)14時59分配信
 
 【ソウル時事】初代韓国統監の伊藤博文元首相を
 
中国のハルビン駅で暗殺した独立運動家・安重根の石碑を同駅に設置する動きが中韓の間で進んでいる。
 
慎重だった中国も前向きな姿勢に転じており、「中韓共闘」で日本に圧力をかけている形だ。
 
「犯罪者」との日本政府の評価に韓国では猛反発も起きている。

 石碑設置は韓国が中国に協力を求めていたが、6月に朴槿恵大統領が習近平国家主席に改めて要請。大統領は今月18日の楊潔※(※=竹カンムリに褫のツクリ)中国国務委員との会談で、計画が順調に進んでいることに謝意を示した。

 中国は2006年にハルビン市内に建てられた安重根の銅像を撤去するなど、崇拝の動きに神経をとがらせてきた。韓国紙・朝鮮日報は「中国は日本との関係を勘案し、安義士の記念事業に消極的だったが、歴史や尖閣諸島で日本と対立し、韓国と共同戦線を張っている」と伝えた。

 韓国の動きに菅義偉官房長官は「安重根は犯罪者だと韓国政府にこれまでも伝えている。日韓関係のためにならないのではないか」と不快感を表明。世耕弘成官房副長官も「死刑判決を受けた人物だ。それに尽きる」と述べた。 
 
イメージ 2
 
テロ犯人 安重根
 
伊藤は、亡くなる1か月前に高杉晋作の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる碑文を寄せている。
また、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている[6]。明治42年(1909年)10月、ロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。
このとき伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば、「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉であったとされる。享年69。11月4日日比谷公園国葬が営まれた。
伊藤の死に際しては、
伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう。
(政敵であった)尾崎行雄
韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。
我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。
宮武外骨, 『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号
(征韓論の経緯)
 いよいよ西郷隆盛最大の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。
 簡単に前述しましたが、西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
 それでは、なぜ西郷が征韓論の巨魁と呼ばれることが歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。

 まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきた、つまり悪化してきたのかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際(国交)を復活させようとしたことに始まります。
 元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていた間柄でした。
 しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は日本との国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた節操の無い日本とは交際出来ないという判断だったのでしょう。
 このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間がありませんでした。当時の幕府としては、国内に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
 しかし、当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」や「奉勅」という言葉があるのを見つけ、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。朝鮮政府としては、先の「皇上」や「奉勅」といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
 このように朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。
 明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送り続けましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否し続け、一向にらちが開きませんでした。
 明治政府は、そんな朝鮮問題を解決するべく、外務権大録の職にあった佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。
 しかし、この三人は朝鮮の首都にも入ることが出来ず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。

 目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な「征韓論」を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわりました。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。
 この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允でした。
 後年、征韓論に反対したとされる木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかもしれませんが、これはまぎれも無い事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙の中に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
 このように当時の木戸は征韓論に熱心になっていたのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題が先にあったため、征韓論ばかりに構っているわけにはいかず、また廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立つこととなったため、木戸としては一先ず征韓論を胸中にしまう形となりました。
 しかしながら、前述した佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の高官達になおも熱心に説いてまわったので、征韓論は人々の間で次第に熱を帯びてくることとなりました。
 明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされました。朝鮮現地においては、まさに日本と朝鮮とが一触即発の危機にあり、その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。
 こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。


(西郷の遣韓大使派遣論)
 閣議に出席した外務少輔の上野景範(うえのかげのり)は、

「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」

 と説明しました。
 その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。

「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」

 板垣はそう述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議したのです。
 しかし、その板垣の提案に当時閣議の中心人物であった西郷は首を振り、次のように述べました。

「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」

 西郷の主張することは、まさしく正論です。西郷は、板垣の朝鮮即時出兵策に真っ向から反対したのです。
 西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言いました。
 しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ったのです。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしゅうありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」

 西郷の堂々たる意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良いのではないか」と主張したのです。
 その意見に西郷は、

「政府の首脳が一同に会した閣議において、国家の大事の是非を決定出来もはんじゃったら、今から正門を閉じ、政務の一切を取るのを止めたほうがよろしゅうごわす!」

 と、大隈に強く言い返しました。
 
 
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転載元: 世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」


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