枝権兵衛 銅像
現代社会では、自分が生まれ育ったふるさとを離れて、慌しい日常を送る大人たちも多く、ふるさとへの誇りや愛着といったものが希薄になりつつあるのではないでしょうか。筆者が子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃん、あるいは学校の先生から、ふるさとの発展に貢献した偉人伝の類を語り聞かされて育った子供たちも多かったと思いますが、いまはそのような機会も少なくなっているのではないでしょうか?
現代社会では、自分が生まれ育ったふるさとを離れて、慌しい日常を送る大人たちも多く、ふるさとへの誇りや愛着といったものが希薄になりつつあるのではないでしょうか。筆者が子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃん、あるいは学校の先生から、ふるさとの発展に貢献した偉人伝の類を語り聞かされて育った子供たちも多かったと思いますが、いまはそのような機会も少なくなっているのではないでしょうか?
石川平野は、全国屈指の米どころとして今日知られていますが、水の利用をめぐって争いが絶えませんでした。
今回は命を賭して、地域の為に用水を完成に尽力した枝権兵衛 ( えだごんべえ )のお話です。
鶴来町 ( つるぎまち ) を 扇 ( おうぎ ) の 要 ( かなめ ) にした 金沢平野 ( かなざわへいや ) は、夏から秋にかけて一面に稲穂がたれて、まるで金色の海のように果てしなく広がります。その豊かな水田地帯をうるおしているのが 七ヶ用水 ( しちかようすい ) です。
石川県最大の川、 手取川 ( てどりがわ ) の本流を水源とした七ヶ用水の誕生は、江戸時代末期に 枝権兵衛 ( えだごんべえ ) によって行われた 富樫用水 ( とがしようすい ) の改修がきっかけといわれています。それまでは七つの用水があり、それぞれに手取川に 堰 ( せき ) をつくって水を引いていました。
日本でも有数の急流である手取川は、昔から「暴れ川」とも呼ばれ、一度大雨が降り、水かさが増すと、 取入口 ( とりいれぐち ) に築かれた堤防も一瞬のうちに大水に流され、泥や砂が水田を埋めつくし、一粒の米もとれなくなってしまいます。また、その反対に夏の日照りが続くと、水かさがすぐに減って、田や畑に水が流れず干上がってしまい、稲や野菜も枯れてしまいました。そのためこの地域では水をめぐっての争いごとが絶えませんでした。
こうした人々の苦しみを知り、何とかして大水にも日照りにも負けない、りっぱな用水をつくり上げようと立ち上がったのが、権兵衛その人です。
権兵衛は、今からおよそ二〇〇年前、 文化 ( ぶんか ) 六年(一八〇九年)に 坂尻村 ( さかじりむら ) (現在の鶴来町)に生まれました。子どものころから知恵もすぐれ勤勉で、わずか十七歳で村の世話役に選ばれ、用水のことにも深く気を配るようになりました。
「このままでは米もとれず、村人も安心して暮らすこともできない。用水の取入口の場所が悪いのだ。もっとよい場所があるはずだ。よし、私が探すぞ」
権兵衛は、固く心に決めました。そしてその日から、雨が降っても風が吹いても夏の日照りの日にも、手取川の川すじをすみずみまで調べ歩きました。それに費やした歳月だけでも数十年が必要でした。そして、ついに取入口としてもっともよい場所を見つけたのです。
そこは、 安久涛 ( あくど ) の 淵 ( ふち ) といって、岩石に囲われ、干ばつの際にも水がたたえられた自然の貯水池です。しかし、険しい岩壁があって、工事が難しいと思われていたのです。
そこで、権兵衛は安久涛の淵から 九重塔 ( くじゅんど ) までの約三〇〇メートルをトンネルとし、九重塔から鶴来町までの約六八〇メートルを 掘割 ( ほりわ ) り(地面を掘って水を通した所)とする計画を立て、 加賀藩 ( かがはん ) に許可を申し出ました。加賀藩では、この工事があまりにも大きく、難しいので、なかなか工事の許可を出しませんでしたが、権兵衛の熱心な姿勢に折れて、とうとう許可を出すことにしました。
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こうして、 慶応 ( けいおう ) 元年(一八六五年)二月、この難しい工事が始まりました。このとき、権兵衛はすでに五十七歳になっていました。
当時は、工事といっても現在のような土木用の機械もなく、 槌 ( つち ) と石のみといった道具しかなかったので、多くの人に頼らざるを得ず、大勢の人が働いても一向に工事ははかどらず、けが人まで出る始末でした。
なかなかはかどらない工事に、
「工事をすると、たたりがある」
「権兵衛は、金もうけでやっている」
といったうわさが広がり、工事に出る者も次第に減っていきました。
権兵衛は、トンネル工事のために、 越 ( えっ ) 中 ( ちゅう ) の国(現在の富山県) 五箇山 ( ごかやま ) から石を刻んで細工する技能者たちを雇い入れて進めていたのですが、この人たちも、こんなひどい工事の割に賃金が少ないといって騒ぎ立てました。あるときは 鍬 ( くわ ) を振り上げて、権兵衛を殺そうとまでしました。
しかし、何が起こっても権兵衛はくじけません。工事のお金が足りない分は、自分の家や田んぼなど、財産をなげうってその費用にあてました。また、工事に反対する村人たちを自分の家に集めたり、村の家々を回り
「この工事が完成すれば、大雨が降っても田は水びたしにならないし、日照りが続いても田には水をいくらでも入れることができる。最後まで頑張ってほしい」
と、力を込めて話しました。
さしもの大工事も、五年の歳月を費やし、明治二年(一八六九年)五月、ついに完成したのです。
七ヶ用水の取入口が完成したことによって、農民の長い間の苦しみも除かれました。たくさんの村と人々が受けためぐみは、限りなく深く現在もその恩恵を受けています。
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今回は命を賭して、地域の為に用水を完成に尽力した枝権兵衛 ( えだごんべえ )のお話です。
鶴来町 ( つるぎまち ) を 扇 ( おうぎ ) の 要 ( かなめ ) にした 金沢平野 ( かなざわへいや ) は、夏から秋にかけて一面に稲穂がたれて、まるで金色の海のように果てしなく広がります。その豊かな水田地帯をうるおしているのが 七ヶ用水 ( しちかようすい ) です。
石川県最大の川、 手取川 ( てどりがわ ) の本流を水源とした七ヶ用水の誕生は、江戸時代末期に 枝権兵衛 ( えだごんべえ ) によって行われた 富樫用水 ( とがしようすい ) の改修がきっかけといわれています。それまでは七つの用水があり、それぞれに手取川に 堰 ( せき ) をつくって水を引いていました。
日本でも有数の急流である手取川は、昔から「暴れ川」とも呼ばれ、一度大雨が降り、水かさが増すと、 取入口 ( とりいれぐち ) に築かれた堤防も一瞬のうちに大水に流され、泥や砂が水田を埋めつくし、一粒の米もとれなくなってしまいます。また、その反対に夏の日照りが続くと、水かさがすぐに減って、田や畑に水が流れず干上がってしまい、稲や野菜も枯れてしまいました。そのためこの地域では水をめぐっての争いごとが絶えませんでした。
こうした人々の苦しみを知り、何とかして大水にも日照りにも負けない、りっぱな用水をつくり上げようと立ち上がったのが、権兵衛その人です。
権兵衛は、今からおよそ二〇〇年前、 文化 ( ぶんか ) 六年(一八〇九年)に 坂尻村 ( さかじりむら ) (現在の鶴来町)に生まれました。子どものころから知恵もすぐれ勤勉で、わずか十七歳で村の世話役に選ばれ、用水のことにも深く気を配るようになりました。
「このままでは米もとれず、村人も安心して暮らすこともできない。用水の取入口の場所が悪いのだ。もっとよい場所があるはずだ。よし、私が探すぞ」
権兵衛は、固く心に決めました。そしてその日から、雨が降っても風が吹いても夏の日照りの日にも、手取川の川すじをすみずみまで調べ歩きました。それに費やした歳月だけでも数十年が必要でした。そして、ついに取入口としてもっともよい場所を見つけたのです。
そこは、 安久涛 ( あくど ) の 淵 ( ふち ) といって、岩石に囲われ、干ばつの際にも水がたたえられた自然の貯水池です。しかし、険しい岩壁があって、工事が難しいと思われていたのです。
そこで、権兵衛は安久涛の淵から 九重塔 ( くじゅんど ) までの約三〇〇メートルをトンネルとし、九重塔から鶴来町までの約六八〇メートルを 掘割 ( ほりわ ) り(地面を掘って水を通した所)とする計画を立て、 加賀藩 ( かがはん ) に許可を申し出ました。加賀藩では、この工事があまりにも大きく、難しいので、なかなか工事の許可を出しませんでしたが、権兵衛の熱心な姿勢に折れて、とうとう許可を出すことにしました。
こうして、 慶応 ( けいおう ) 元年(一八六五年)二月、この難しい工事が始まりました。このとき、権兵衛はすでに五十七歳になっていました。
当時は、工事といっても現在のような土木用の機械もなく、 槌 ( つち ) と石のみといった道具しかなかったので、多くの人に頼らざるを得ず、大勢の人が働いても一向に工事ははかどらず、けが人まで出る始末でした。
なかなかはかどらない工事に、
「工事をすると、たたりがある」
「権兵衛は、金もうけでやっている」
といったうわさが広がり、工事に出る者も次第に減っていきました。
権兵衛は、トンネル工事のために、 越 ( えっ ) 中 ( ちゅう ) の国(現在の富山県) 五箇山 ( ごかやま ) から石を刻んで細工する技能者たちを雇い入れて進めていたのですが、この人たちも、こんなひどい工事の割に賃金が少ないといって騒ぎ立てました。あるときは 鍬 ( くわ ) を振り上げて、権兵衛を殺そうとまでしました。
しかし、何が起こっても権兵衛はくじけません。工事のお金が足りない分は、自分の家や田んぼなど、財産をなげうってその費用にあてました。また、工事に反対する村人たちを自分の家に集めたり、村の家々を回り
「この工事が完成すれば、大雨が降っても田は水びたしにならないし、日照りが続いても田には水をいくらでも入れることができる。最後まで頑張ってほしい」
と、力を込めて話しました。
さしもの大工事も、五年の歳月を費やし、明治二年(一八六九年)五月、ついに完成したのです。
七ヶ用水の取入口が完成したことによって、農民の長い間の苦しみも除かれました。たくさんの村と人々が受けためぐみは、限りなく深く現在もその恩恵を受けています。
七ヶ用水給水口