http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2012-02/22/content_24703475.htm
南京大虐殺生存者の叫び 「私達が証人だ」
発信時間: 2012-02-22 16:41:13 | チャイナネット
河村たかし名古屋市長が20日、南京市代表団と会談した際に「南京(大虐殺)事件はなかったのではないか」と発言したことを受け、南京大虐殺の生存者が21日に取材に答え、「私達が証人だ」と怒りを込めて語った。中国新聞網が報じた。
南京防衛戦に参加した経験を持つ兵士のうち、今も存命している人はわずか3人だ。その中の1人、李高山氏(88)は南京防衛戦に参加した兵士であり、南京大虐殺の生存者でもある。
李高山氏は高齢で耳は遠いものの、名古屋市長の言葉を聞くと「名古屋市長は事実を歪曲している。私は死体の山の中から這って出てきたんだ。これこそが証拠であり、私達は証人だ」と怒りを込めて語った。
「今日ニュースを見て、とても憤慨している」。南京大虐殺の生存者、シャ子清氏(79)は記者にこう語った。「名古屋市長の言葉は完全なるでたらめだ。南京大虐殺は世界的にも認められている。生存者の李秀英氏は亡くなる前に『恨みではなく、歴史を記憶しよう』と語った。我々は彼女の言葉を胸に刻まなければならない」。
1937年の南京大虐殺から74年が経ち、生存者も皆高齢者となった。侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館の統計によると、南京大虐殺で生き残った人のうち、今も存命している人は237人であり、歴史の「生き証人」は今後10年以内にいなくなってしまう可能性がある。現在各方面は生存者の情報を募集している。
平均年齢80歳を超える生存者たちは、世界各地を訪れて各種の平和集会に参加し、自らの経験を語り、歴史を証言している。
李高山氏は1980年代、大阪で証言報告をしたことがあるほか、昨年12月には香港で南京大虐殺の歴史を語ったという。シャ子清氏は8年前から侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館でボランティアとして働いている。「毎週金曜日に記念館で当番に当たり、見学に来た学生たちに歴史と自分の体験を語っています。2004年から働き始めて、もう8年目になります。記念館側も私の体調を考慮してくれ、これまでは週6日でしたが、現在は週1日の当番となりました」。
李高山氏 略歴:
南京陥落後、日本軍は李高山氏を含む数百人の兵士を捕虜とし、八字山公館に閉じ込めた。日本軍は窓から室内に向かって機関銃で猛射し、ほとんどの人はその場で殺されたが、李氏は背が低かったために奇跡的に生き延びた。その後、建物の屋上に隠れ、飲まず食わずで数日を過ごしたが、向かいにいた日本兵に発見されて拘束され、近くの池で殺されそうになった。しかし、李氏は年が若く、背が低かったため、他の5人は銃殺されたが1人だけ九死に一生を得た。李氏は日本軍に連行され、数十日間肉体労働をさせられたが、その後生還した。
シャ子清氏 略歴:
南京大虐殺発生時、シャ子清氏はわずか5歳だった。当時、父親は運よく長江以北に逃げ延び無事だったが、家に残っていた母親は日本軍に惨殺された。子供たちは米国大使館に逃げ込んだ。ある時、日本兵に捕まり、拳銃で頭を殴られ顔中血だらけになったが、大使館の人に助けられ、生き延びることができた。
「人民網日本語版」2012年2月22日
>その中の1人、李高山氏(88)は南京防衛戦に参加した兵士であり、南京大虐殺の生存者でもある。
88歳なら1923年か1924年生まれだ。
支那事変で南京戦があったのは1937年だ。
こいつは13歳か14歳で支那軍に加わり南京防衛戦に参加したのか?!
軍服を着て参戦したのか?
便衣兵だったのではないか?
14歳以下の支那正規軍兵士だった可能性は限りなくゼロに近い。
つまり、李高山は、嘘を吐いているということだ。
と言うか、そもそも兵士だったのに生存していて「大虐殺生存者」などと言うこと自体がおかしい。
>李高山氏 略歴:
>南京陥落後、日本軍は李高山氏を含む数百人の兵士を捕虜とし、八字山公館に閉じ込めた。日本軍は窓から室内に向かって機関銃で猛射し、ほとんどの人はその場で殺されたが、李氏は背が低かったために奇跡的に生き延びた。
日本軍が戦闘中に捕まえた直後に処分した支那軍将兵は「捕虜」ではなく、「投降兵」や「敗残兵」や「便衣兵」などだ。
「捕虜」というのは、相手の軍が投降を認め、収容所などに収容されて初めて「捕虜」となる。
1937年12月に日本軍が処分した支那軍将兵は、「捕虜」ではなかった。
戦闘中に投降してきた支那軍将兵を捕虜として保護するかどうかは、主権者である日本軍が判断する。
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ハーグ陸戦法規第二十三条は、「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」を禁止している。
しかしながら、戦闘の進行中で敵軍の一部が投降せんとする場合に、味方軍がこれを受諾し投降兵を収容して後方に送致する為には味方軍の進撃を中止する必要を生じその事が味方軍の勝利を危うくする惧れのある場合には、味方軍の安全と勝利を確保する為に敵軍の降伏信号を黙殺して攻撃を継続する事が軍事上必要となる。
故に、戦時法規は一定の条件下において投降の拒否を認めるのである。
この見解はオッペンハイムを始め多数の戦時国際法家に支持されている。
「投降兵の助命は、次の場合に拒否しても差し支えない。
第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、
第二は、敵の戦争法規違反に対する報復として、
第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危うくされる場合においてである。」
(オッペンハイム)
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ましてや、相手が便衣隊(軍服を着ないゲリラ部隊)の場合、適当な場所へ連れて行って処断するのは当たり前のことだ。
日本軍の場合、1937年、8月、9月、10月、11月…と、多くの支那軍便衣兵によって、多くの日本軍将兵が犠牲になった(関連記事)。
便衣兵は殺すしかない。
便衣兵を殺さなければ、その後、支那軍は癖になって便衣隊戦術をエスカレートさせ、日本軍や一般市民の被害は拡大する一方だ。
ちなみに、支那軍は、支那事変のあった8年間で、投降したり負傷したりして捕まえた日本兵を捕虜として保護したことは全くなかった。
「反戦兵士」にする極めて少数の日本兵を除き1人残らず惨殺した。
まさに「皆殺し」だった。
一方、日本軍は、南京だけでも1万人以上の支那兵を捕虜として保護した。
まー、普通に考えて、13歳か14歳で「南京防衛戦に参加した」などという李高山(88)の話は嘘っぱちのでっち上げだ!
>南京大虐殺の生存者、シャ子清氏(79)
79歳ということは、1932年か1933年生まれだ。
支那事変で南京戦があったのは1937年だ。
南京戦があった1937年当時、シャ子清は、4歳か5歳だった!
4歳か5歳の子供に、日本軍か支那軍かを区別するのは困難だし、ましてや戦闘か便衣兵処刑か虐殺かの区別など絶対に無理!
以上、 「私達が証人だ」と叫んだ李高山とシャ子清の2人の生き証人とやらは、アッサリと2人とも嘘吐きの偽証言者だと判明した!
実は、支那事変(大東亜戦争)が終わると、連合軍は支那人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけたが、当時そのような証言者が現れず、連合軍は非常に苦労した。(関連記事)
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東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か四件であった。ともかく・・・
The Alleged "Nanking Massacre"再審「南京大虐殺」
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2-1-2
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今頃になって、 「私達が証人だ」と叫んだところで、一人は13歳か14歳で参戦したと言っているし、もう一人は当時4歳か5歳だったのだから、全く証人とは認められない。
私は、2003年くらい前からヤフー掲示板などで南京問題について反日左翼たちを相手に論争を繰り広げてきた(ブログを始めるまでは殆ど毎日で、ブログを始めてからは週に1度)。
しかし、未だに一度たりとも日本軍による南京での虐殺を証明する証拠や証人を見たことがない。
☆チン チン ☆
チン チン
☆ チン 〃 Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) < 鉄壁の証拠、まだ~ー!!
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| .台湾バナナ. |/
(つづく)