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新京
戦後、日本人は満州を「日本の傀儡だ」といい、「植民支配だ」という。
今では満州事変と支那事変も区別のつかない教育をされていますが、やられているということを理解し、やはりきちんと理解しておくべきです。
欧米がアジアやアフリカで行っていた植民地支配は現地から資源など搾取し、強制栽培、愚民・奴隷にし、白人国家の益々の繁栄は植民地支配による犠牲、つまり人々の生活苦と多数の餓死者の上で成り立っていたのです。
しかし、日本は満州も朝鮮も台湾もそんな統治の仕方はしていませんでした。
当時は弱肉強食で、力が弱ければいつ侵略されてしまうかわかりません。
日本も独立を維持するには強い軍隊だけではなく、そのためにも資源が必要でした。日本国内には資源はない、しかし、いつ列強が攻め寄せてくるかわからない。
一方で白人のような搾取の植民地支配は日本の国是に反することであります。
日本は共存共栄、和を重んじる国柄です。そして何より「八紘一宇」が建国の詔勅である国であるのです。経済的搾取ではなく、多額の投資を行い、現地の意向を取り入れて互いに国家的繁栄をはかろうという「五族協和」こそが日本の国是であったのです。
当時の満州は共産匪賊や馬賊が正当な条約で得ている日本人の権益を脅かし、被害が拡大していました。日本の子供たちは軍隊に保護されないとと学校にも通えなかったのです(当時関東軍司令官・本庄繁『満州事変の本質』)。
満州の中でも蒋介石や張学良の重税や治安の悪化に堪えられず、臨時政府や委員会がたくさん立ち上がり、自分たちの国・満州建国を望む声が大きくなりました。
そうして出来たのが満州国です。決して日本が侵略して出来た国ではないのです。
ただ、軍隊を持たない満州では日本軍に守ってもらいたいという願いから関東軍が治安維持を受け持ったのです。
満州国の首都は長春を新京と呼びました。新京は人口13万人の都市で満州では大した都市ではありませんが、満州の中心であり奉天(瀋陽)のような古い町を残すのではなく新しい建国ができる都市を求めたから首都になったのです。
首都選定に当たり事前に中心24キロ四方の土地の売買を禁じたため円滑な都市づくりができたのです。これは関東軍が独自に行ったものです。
満州国こそ日本が蓄積した都市計画の理念と技術を発現できるところとなったのであります。幹線道路は何と60メートルもとられ、路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道の整備、水洗式トイレ、一部、日本にあるような電柱がなく地下に埋設され、道路脇には街路樹が整備され、人工湖である南湖は親水公園となりました。
戦後、この町に進駐してきた蒋介石の参謀ウェデマイヤー将軍は「何という素晴らしい町づくりを日本はしていたことか」と日本人居留民代表の高碕達之助に話しました。夜遅くまで役所に残る日本人職員達を満州国の張景恵総理は「安月給でこんなに働く役人がどこにいるのだろうか」と言ったくらいです。
新京に日本人がつくった堅牢な建物や街並みは今もシナ人の生活に役立ち、利用されていることを考えれば、正しく調べもせずに我々の先人の偉業を「傀儡と」か「侵略」という悪意を持った言葉で表すことが出来るのか、よく考えたい。
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