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[転載]韓国の中央日報「戦犯を殉国烈士に」三文字正平弁護士らは苦心のすえに東條英機大将等七烈士の遺骨を入手し「殉国七士廟」まで辛苦があった、ローマ法王庁・サンピエトロ大聖堂に元戦犯1068柱の「位牌」を奉納

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忘れずに読み逃げせずにクリックを<(_ _)>
 
 
 
良識ある日本国民の皆様には、韓国の中央日報が「戦犯を殉国烈士に」と報道したことはご存知だと考えます。
 
戦犯を殉国烈士に…日本極右の「隠された聖地」

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太平洋戦争のA級戦犯に指定され絞首刑に処された7人の遺骨を奉安した殉国七士廟。碑の真下に彼らの遺骨を入れた箱が埋められている。

13日午後、東京から車で5時間の愛知県三ヶ根山の頂上。太平洋戦争直後の軍事裁判で絞首刑に処された日本の東条英機元首相らA級戦犯7人が殉国烈士に化け風景の良い日本の山のふもとに安置されていた。

山岳有料道路のスカイラインから右側の道に200メートルほど抜けると墓の入口にそびえ立った5メートルほどの大きな碑が最初に目についた。碑には「殉国七士廟」という大きな揮毫が刻まれている。碑の裏を見ると、「第56・57代内閣総理大臣岸信介書」と記されていた。この墓地が作られた1960年当時の首相であり、安倍晋三現首相の母方の祖父である岸の文字だった。彼もやはりA級戦犯として服役し、不起訴となり政治的に復活した人物だ。保守政治勢力の長兄のような存在で、安倍首相に保守右翼の政治的遺伝子を譲った張本人だ。彼が現職首相の身分で核心戦犯7人衆を「殉国烈士」として称賛する揮毫を送ったのだ。

入口から300メートルほど入り階段を上るとすぐに戦犯7人の墓が現れた。長さ2メートルほどの墓石には殉国七士墓という文字が刻まれた。その裏には殉国烈士に化けたA級戦犯7人の自筆文字でそれぞれの名前が書いている。

中国の蒋介石国民党総裁が「戦犯1号」に挙げた謀略の大家の土肥原賢二元陸軍大将、南京大虐殺の主犯松井石根元陸軍大将、侵略戦争の総責任者東条英機、フィリピン捕虜虐待で有名な武藤章元陸軍中将、満州事変を起こした関東軍参謀長の板垣征四郎元陸軍大将、文民出身で中日戦争を起こした広田弘毅元首相、ビルマ戦線で侵奪行為を日常的に行った木村兵太郎元陸軍大将。

彼ら7人は48年12月23日の死刑後に火葬されると、戦犯裁判に参加した三文字正平弁護士がこっそりと遺骨を回収して保管し、60年に墓地造成と同時に移葬した。墓地関係者は、「7人の遺骨が碑石の真下に埋められている」と話した。

位牌だけがある靖国神社より実際の遺骨が埋められた日本の右翼の本当の聖域だったのだ。人里離れた田舎の山の頂上に平日午後の時間にもかかわらず参拝客が続いた。特に2~3人単位の若者たちの姿が多かった。
2013年08月15日中央日報
http://japanese.joins.com/article/055/175055.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|inside_right
 
>太平洋戦争直後の軍事裁判で絞首刑に処された日本の東条英機元首相らA級戦犯7人が殉国烈士に化け風景の良い日本の山のふもとに安置されていた
 
ふざけるな!
 
東条英機元首相らは元A級戦犯で、殉国烈士は事実なので化けてはいません。
 
歴史を捏造してテロリストを英雄にしている韓国人には、A級戦犯は存在しないという事実も、殉国者という意味も理解できないのです。
 
「極東国際軍事裁判」(東京裁判)とは、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くとの理不尽で、裁判との名を借りた連合国による日本への復讐の儀式でした。
 
東京裁判で被告人の起訴は1946年4月29日、昭和天皇の御誕生日(天長節)に行われました。
 
 
絞首刑判決の刑の執行は1948年12月23日、当時、皇太子殿下の御誕生日(現在の天長節)に行われました。
 
これこそが、連合国による復讐の儀式の証です。
 
1948年12月23日、A級戦犯とされた
東条英機第40代首相、板垣征四郎陸軍大将、土肥原賢二陸軍大将、松井石根陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅第32代首相、
7名の方々の絞首刑が執行されました。
 
 
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本当の侵略者である連合国は、永遠に日本だけを侵略国家と断罪する目的で、わざと天長節に合わせて東條英機大将等七烈士の死刑を執行したのです。
 
1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効で、日本は主権を回復しました。
 
同条約11条で日本が受諾したのは「判決」、つまり「刑の執行の継承(刑の即時停止の防止)」で、「判決理由(裁判)」ではありません。
 
そして、「戦犯」とされた方々のために衆参合わせて4回の国会決議もされ、戦犯とされた方々の名誉回復がされました。
 
すでにA級戦犯を含めた「戦犯」という方々とは、国内的にも国際的にも存在しません。
 
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>彼ら7人は48年12月23日の死刑後に火葬されると、戦犯裁判に参加した三文字正平弁護士がこっそりと遺骨を回収して保管し、60年に墓地造成と同時に移葬した
 
GHQが極悪非道だからだ!
 
東條英機大将らの絞首刑が執行されるとき、マッカーサー司令部が遺体も遺骨も家族に渡すつもりがないことが判明しました。
 
三文字弁護士らは、なんとか遺骨だけは手に入れたいと考え、深夜、七烈士が火葬された 横浜市 久保山の火葬場に忍び込み苦心のすえに遺骨を入手しました。
 
 
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三文字弁護士
 
三文字正平氏は、東京裁判で小磯国昭元首相の弁護人を務めた人です。

七名に死刑が言い渡された昭和23年11月12日、三文字氏は、マッカーサーを訪ねて帰ってきた米人弁護士から、遺体を遺族に渡してくれるよう頼んだが元帥は返事をしなかった旨を聞かされました。その日から、三文字氏はなんとか遺骨だけは取り戻したいと考えるようになります。

そして、たまたま懇意にしていた米検事から、執行はクリスマスの前、巣鴨拘置所内、火葬は横浜市久保山の火葬場で行われることを聞き出しました。

三文字氏は久保山興禅寺の市川住職に相談を持ちかけ、さらに火葬場の飛田場長も意気に感じ協力を約束してくれました。

七氏の刑は12月23日午前0時から執行されました。第一組として土肥原、松井、東條、武藤の四氏、第二組として板垣、広田、木村の三氏が、天皇陛下万歳を三唱して台上の露と消えたのです。二組になったのは用意された死刑台が5基だったからです。

同日午前7時ころ、七氏の遺体が巣鴨から火葬場に運び込まれました。周囲は銃で武装した米兵に囲まれ場内に入れた日本人は飛田場長と3人の職員のみでした。彼らは米兵監視の目をかすめ、七氏の遺骨を七つの骨壺に納めることに成功しますが、隠した場所に香を焚いたため発見され、没収されてしまいます。

米兵は七士の遺骨を鉄棒で粉砕し箱に詰めて運び去り、残った分は全部ひとまとめにして骨捨場に遺棄してしまいました。

その報告を聞いた三文字氏はあきらめず、25〜6日の深夜、市川師とともに飛田場長に伴われ火葬場に忍び込みます。骨捨場というのはコンクリート製の壕のようなもので、底に見える新しい骨を苦心の末に拾い上げました。

遺骨の入手には成功しましたが、当時の情勢では占領軍にでも知れるとただではすみません。三文字氏は戦死した甥の遺骨として、とりあえず興禅寺に預けます。

それから約半年、様子を見ていましたが問題が起こることはなかったので、三文字弁護士は遺族に渡そうと考えました。昭和24年5月、熱海伊豆山の松井大将宅に遺族が集まるとの通知を受け、市川師と共に遺骨を運びます。

丁重な供養の後、遺骨を分けようとしたところ、東條夫人から、
「御厚志は真にありがたいが、私共が如何に秘密に保存しようとしても、万一遺骨を所持することが何人かにでも探知されたら、御両所にとり返しのつかない非常な御迷惑をおかけすることになると思われるので、当分このまま何処かへ御預けして時機到来を待ってから分けて頂きたい」
と告げられました。

そこで、再び三文字氏の甥の名を骨つぼに付して、一旦、松井大将の建立された興亜観音堂に安置することとしたのです。
殉国七士奉賛会発行『殉国七士の墓』より抜き書き
 
七烈士の遺骨は横浜久保山興禅寺を経て、一旦、松井大将建立の熱海伊豆山の興亜観音堂に安置されました。
 
当時の日本は、連合国による不当な日本国の責任を極刑で一身にうけ、刑場の露となった殉国者に冷たく、長らく遺骨の埋葬さえ許されませんでした。
 
三ヶ根山頂に東條英機大将らの墓地建設が決まり、遺族をはじめ政財界などからの賛同を得て、昭和35年に「殉国七士廟」は完成しました。
 
 
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>位牌だけがある靖国神社より実際の遺骨が埋められた日本の右翼の本当の聖域だったのだ
 
位牌は神社にない!
 
韓国の主要紙である中央日報も「位牌だけがある靖国神社」と報道したように、韓国人は靖国神社に位牌が奉納されていると信じています。
 
1月にAKB48のメンバー、板野友美と島崎遥香が初詣に靖国神社を参拝しましたが、韓国人は「戦犯の位牌が合祀されている靖国神社に参拝した」と非難しました。
 
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韓国人は「サンピエトロ大聖堂」に、元戦犯である昭和殉難者1068柱の「位牌」が奉納されていることを知るべきです。
 
 
ローマ法王庁・ヴァチカンには、昭和の殉難者1068柱の霊が祀られている。
 
連合国の手で「戦犯」として裁かれたABC級すべての日本人「法務死」者の霊が、世界のキリスト教カトリックの総本山ヴァチカンに、他ならぬローマ法王によって祀られたのである。
 
順和師は昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた折に、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために、宗教の違いを超えて願い出たのである。

順和師の父であり先代座主でもあった順海大僧正は、学徒兵や殉難者の法要を欠かさず、「七戦犯の鐘」など慰霊の鐘も護持している。その多くはキリスト教信者であった連合国側にとって、これほどの皮肉はない。皮肉というよりは、勝者の驕りに対する「神の戒め」であるとも言えよう。

時のローマ法王・パウロ六世に、日本人殉難者のためにミサを、と訴えたのは仏教徒の仲田順和師であった。

先代座主の遺志をついだ真言宗醍醐寺派別格本山品川寺(ほんせんじ)の仲田順和師の願いを、パウロ六世は快く承諾した。しかし、喜んで帰国した順和師にその後届けられたのは、法王の訃報であった。その後を襲ったパウロ一世も急逝し、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。

その順和師のもとに、ヨハネ・パウロ二世から親書が届けられたのは五年後の昭和五十五年四月、内容は「五年前の約束を果たしたい」との思いもかけぬものであった。
 
ローマ法王庁は、異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。
 
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パウロ六世の真心に応えようと、帰国直後から作製を依頼していた五重塔に殉難者千六十八柱の位牌を納め、ヴァチカンに奉納されたのは、同年五月のことである。
 
醍醐寺五重塔を精巧に模した塔は、「戦犯」慰霊に共鳴した 栃木県大田原市 の木工芸家星野皓穂氏が、三年の歳月をかけ無料奉仕で完成させたもの。
 
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五月二十一日には仲田・星野両氏も参列し、法王パウロ二世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンでとり行われた。
「世界に開かれた昭和の戦争記念館」第3巻より引用
 
 
 位牌は神社に無いと何度も言わすな
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連合国による不当な処刑から昭和35年の「殉国七士廟」完成までの辛苦を知らない韓国人に、日本を非難する資格はありません。
 
良識ある日本国民の皆様、元戦犯についてご考慮下さい。
 
ふざけるな韓国人!
 
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転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘


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