続き 閑院宮を天皇に
後桃園天皇崩御に伴う皇統の危機に際し、女帝を立てる以外の方法も
洗いざらい先例が調べ上げられ、様々な方法が模索された。そしてついに
朝廷は、傍系から即位した継体天皇と後花園天皇の先例に従うことを
決めた。
先帝が遺(のこ)した唯一の内親王を女帝とせず、先例にあるとおり、
たとえ遠縁であろうとも、いずれかの天皇の男系男子を世継ぎとした
。天皇の近親に男系男子はいなかったものの、傍系であれば正真正銘の
天皇の男系男子が存在していたのである。
天皇の男系男子が存在していたのである。
このとき世継ぎに選ばれたのは世襲親王家、つまり宮家の男子だった。
朝廷は、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六王子でまだ満8歳の
祐宮(さちのみや)を後桃園天皇の養子とした上で世継ぎとする旨を
正式に取り決めた。祐宮というのは幼名であり、
御名を「師仁(もろひと)」、後に「兼仁(ともひと)」と称した。
祐宮は第一一三代東山天皇の男系の曾孫に当たり、また先代の
後桃園天皇とは七親等の遠縁に当たる。祐宮は生後間もなく
聖護院宮忠誉(しょうごいんのみやちゅうよ)入道親王の元に預けられ、
将来聖護院門跡を継ぐことが予定されていた。
現在は天皇の皇子であれば自動的に宮家を創設することになっているが、
近世以前にはそのような習慣はなく、天皇もしくは四親王家の当主に
ならなかった親王は、宮家を創設せずに出家して門跡に入るのが原則で
あった。
出家した皇族が入る寺院は宮門跡といわれ、一種の寺院格式をなした。
輪王寺(りんのうじ)、青蓮院(しょうれんいん)、聖護院、勧修寺
(かんしゅうじ)、仁和寺(にんなじ)、知恩院(ちおんいん)などが
江戸時代の宮門跡として知られている。幕末になると、
青蓮院宮が還俗(げんぞく)して中川宮へ、また勧修寺宮が還俗して
山階宮(やましなのみや)となるなど、明治2年(1869)までの間に、
出家していた親王は次々と還俗を命ぜられ、宮門跡は廃止された。
後桃園天皇崩御翌月の11月8日、祐宮が世継ぎとなることを
関白九条尚実(くじょうなおざね)が叡慮(えいりょ)〔天皇の考え」
として発表した。この重大な発表があった日、祐宮は閑院宮邸から
天皇の御所である禁裏御所に移り住み、皇位の証である剣璽(けんじ)
天皇の御所である禁裏御所に移り住み、皇位の証である剣璽(けんじ)
(三種の神器のうちの剣と勾玉(まがたま))を受け継ぐ践祚の儀を
済ませた。
この祐宮こそ光格(こうかく)天皇である。翌日の11月9日、朝廷は
ついに後桃園天皇が崩御したことを公にした。この運命の日より祐宮の
生活は一変する。8歳の祐宮にとって、天皇になることの意味を理解
することはできなかつたであろう。しかし、立派な僧侶になるための
修行をしていた生活が、御所の中の生活に様変わりするのであるから、
祐宮も戸惑ったに違いない、
何も知らない祐宮が初めて禁裏御所に入るところは、「ラストエンペラ
ー」として知られる清朝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が幼少に
して紫禁城に入る場面を紡佛とさせるものがある。
続く
竹田恒泰 著 「皇族たちの真実」より
続く
竹田恒泰 著 「皇族たちの真実」より