時事問題、社会問題等を尊大に指摘する快感の虜となったが反日サヨクです。大東亜戦争、人権問題など社会に暮らす多くの人々について訳知り顔で報道する。単なる思い上がりと言ってしまえばそれまでなのですが、なぜこういう人間が増えたのかを検証してみたい。
これら間違いなくテレビや新聞の影響です。他人に訳知り顔で威張るのは実に愉快だ。こういった悪趣味な需要を公的な媒体が満たしているのです。情報弱者といわれる視聴者がそれの猿マね、オウム返しをしているのに過ぎません。
言ってみれば子供番組に出てくる正義のヒーロー面して、「悪者ども、その子から手を放せ!」を真似る幼児のようなものにすぎません。
テレビや新聞などの媒体情報を素直に信じ、テレビ解説者、識者があきれ顔で政治家批判する有り様にうんうんうなずくどちらかというと単純な体質の人間。こういった単純系人間の中から、反日サヨクが生まれるのです。
インターネットの普及でテレビの低俗さを指摘する人間は多い。筆者は別に低俗な文化があっても良いと考えます。全ての文化が高尚である必要などない。低俗と言われるテレビ番組に面白いものは多い。というか、筆者は低俗な番組にしか面白いテレビ番組はないとすら言い切る。娯楽の供給はテレビの最も得意とする分野だ。
誤解のないように記すが、筆者は高尚といわれる文化も同様にあっても良いと考える。深い教養を持つ一部の人間にしか理解できない高度な芸術や文学などがあってもいいとも思う。例えば古典文学、能楽など。「芸術は一部ブルジョアジーのためのものであってはならず、常に労働者にわかりやすいものであるべき。」などという、共産主義的な発想にはたたないのです。
筆者が最も懸念するのは、テレビ媒体により高尚で高度な文化が、低俗に引きずり落とされることを懸念するのです。低能なテレビ解説者、識者によるやたら馬鹿丸出し、嘘八百のコメントなどによって。
テレビ解説者、識者なるものを出演させ、政治家などについてあきれ顔で説教させる手法が、多く使われています。
政治はもとより、国防、経済、科学技術、宗教神事司祭、野球やサッカーなどスポーツ、映画や音楽など芸術などあらゆる事柄について、無知なキャスターが訳知り顔で的外れの評論する。それぞれに詳しい専門の方から見ると、おおむね目を覆いたくなるようなマヌケ極まりない内容が多いのが今日のテレビ媒体です。
真の文化、伝統などはテレビ解説者ごときが看破できるような浅はかなものではなく、それに無理にコメントしようとするから、こんなアホなことになる。解説をさせるのであるなら、せめてその道に通じた専門家にさせるべきでありましょう。
しかしながら、NHKのテレビコラムのように専門家に淡々と解説させるのみでは視聴率は上がらないず、テレビ番組ではある程度の個性のある特定キャラクターを売りにするのが視聴率向上に有効な手段ですが、この結果、視聴者は毎回同じバカ面が奏でるタワゴトを聞かせられるハメになっているのが実情です。
テレビでは様々な文化が放送されるが、それぞれに詳しい人間が見るとあれは本物ではないと一様に言う。例えば以下のような言い回しで。
「テレビで放送されている○など見ても本当の○の良さが解るわけではない。表面的な○の紹介程度にしかなっていない。」
政治であっても同様です。政治を語るなら、議会に足を運び傍聴し、国会中継をくまなく視聴してこそ真実が見えてくるのです。
筆者はテレビ放送が娯楽の供給に秀でていることを素直に認めますが、同時に、テレビや新聞などでは真の教養は身につかないのです。真の教養とは、例えば茶道なら十年やって身につく奥義の深いものです。
娯楽の供給こそがテレビの王道であり、その点においてテレビは莫大な文化的貢献をしてきました。逆にそれ以外のいかなる文化的価値もないのです。
要はテレビは偽物なのです。特にニュース番組、報道番組において顕著に表れています。。その偽物テレビ解説者を信奉し、社会問題、国家の問題を尊大に指摘するニセモノ解説者、識者の口マネをする白痴になってはならないのです。
当時の識者たちはテレビを低俗なものと批判しているが、その背景には書物を中心とした教養主義的な世界観があり、書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、それには文字が読めなければならないし、内容を理解するために自分の頭の中で様々な想像や思考を凝らさねばならない。これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れてくる音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させる、といったことを指摘しています。
大宅氏が指摘しているのは、テレビを次々と見ることにより、「思想が刷り込まれ」たり、「思考停止」に陥ったりする可能性から白痴化と発言したのではないかという考え方が一般的です。