しかし、これらは今日に始まったことではなく、明治開化期からも盛んに行われていたことでした。
朝鮮の南東端に位置する釜山の港湾、草梁には、対馬藩が朝鮮から租借したとも譲り受けたとも言われている地に藩の施設を設けていました。その規模およそ6万坪(「黒田弁理大臣使鮮日記」)長崎出島の15倍の面積があり、石垣で囲んだ城郭様式の中では対馬藩士と商人などを合わせて、常に数百の人数が滞在していた。
朝鮮側からは「倭館」と呼ばれたこの施設は、明治の廃藩置県に伴って日本政府の領事館的施設を伴う日本人居留地として、「釜山草梁公館」と称するようになったのです。
従来人道上から当たり前のこととしてなされていた海難事故による漂流民を相互に救助し保護することについても、それを無視して日本人の漂流民数人を釜山草梁の海岸に放置するなどした。また対馬との貿易も制限したため対馬は経済的に立ち行かなくなった。つまり事実上の経済制裁をうけたのです。
更にその上、公館の門には次のような文書が貼り付けられるという事態に至りました。
「無法の国、恥知らず、衣服容貌とも日本人にあらず(洋装洋服のこと)、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」と。(アジ歴資料「公文別録」の「朝鮮始末(一)」p19)
朝鮮官吏から草梁公館の門番兵宛の達示文であったが、日本に対するその露骨な誹謗中傷の内容と、また何度も繰り返したことや、文書が東莱府使によるものであったことから、日本への宣戦布告の公示とも解釈できるものでした。
しかし、明治12年1月15日の釜山港貿易景勢及び朝鮮国情に付き建白において、すでに6年間朝鮮に滞在した山ノ城祐長釜山管理官は、よくよく観察すると、そうではなく、もっと根源的な、国としてのあり方にその理由があることを見出している。
以下に該当部分を意訳します。
その原因を察するのに、初めは、古昔の三韓時代の時から我が国はしばしばこの国に事を起こし、中古には倭寇の患い、豊臣氏の激討下り、或いは宗氏の家臣らの亡状の弊害があってここに至ったか、と思ったが、よく観察すると真の原因は必ずしもこれらの為に生じたものではないようである。
もっとも、豊臣氏の討伐は今に怨み言のないわけではないが、これらはもはや数百年の久しきことにより自然と消失したと言ってもよい感がある。
また、宗氏との交際上に横目(監視人)と称する者が跋扈しなかったわけではないが、これらは結局は和館の中に閉じ込められて、朝鮮人がそれに会うのも僅かの雇い役人、あるいは朝夕の魚菜販売の賊奴にとどまり、館司をはじめ代官方の者は、ひたすら米穀などを朝鮮側に仰ぐの事情により、実はかえって朝鮮側から苦しめられた者多く、ただ訓導なる者は交際を担当しながら私的に取引をして時々違約などが多いので、代官方に呼んで強く脅したまでに過ぎない。
また、渡海船が「脇乗り」と唱えて他の港に行き朝鮮側から糧米を受けた上に取って故意に碇泊を永くするなどの弊があり、もっぱら朝鮮側の支給を貪る事は常であったそうだが、この糧米は朝鮮の官庫から支給したものであり、その時には官吏が中間に入って私有し、かえって(官吏が)その役得を喜ぶぐらいで、これらの数件は未だ朝鮮の国人が挙げて日本人を忌み嫌い卑視する根本原因とするには不足のものであるだろう。
私が、この地に滞在することすでに年久しく、今一々証拠を挙げるを得ないが、これまで朝鮮の官民に接する上に於いてこの原因を観察するに、この国はもっぱら支那(明国・・漢族)の傲慢自尊に倣い、且つ清国の主はかえって北の狄種(野蛮の異国人すなわちモンゴル部族)をもって立てたれば、今はもはや宇宙間において唯独り聖教賢伝(儒教)の宗匠と自負し、日本に対してはなお支那を頼みとしているようだが、四方を夷狄視するの情、およびその内腹の微弱なるを見透かされることを恐れ、つとめて人民が日本人を忌避するように仕向けることに起こり、我が国の人間が自尊に居ることを心よしとしない情があるのを自然と感ずる。
朝鮮は明国から、その思想や法体系を全面的に導入した国である。つまりは、支那の傲慢自尊すなわち中華思想をまねたのであり、更に、明国が滅んだ後は朝鮮はもはや宇宙間における唯一聖教(儒教)賢伝の宗匠であるという自負を持ち、また、日本が国力において自国よりも上にあることを妬み、それらの感情から日本人自身が自尊心を持つことを快しとしない情があると、報告している。
第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙は「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしています。
館舎は本国寺、五層の楼門には
十余の銅柱、天に達するばかりなり
水石も奇絶、竹林も趣あり
倭皇の住む所とて、奢移をば極め
帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
四千里六十州を、朝鮮の地となし
王化に浴せしめて、礼義の国に作りたし。
「征韓論」の走りとして紹介される文章で、吉田松陰先生は「幽囚録」で次のように述べています。
「犬の糞」だの追い出してしまえとは松陰先生は言ってはいません。
金仁謙の言葉こそ侵略思想であり、征服の言葉ではないでしょうか?