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[転載]乃木夫人

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殉死の日の乃木大将(乃木邸)






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殉死の日の乃木静子夫人(乃木邸)




長寿世界一で、史上最も長生きした男性と認定された木村次郎右衛門(きむら・じろうえもん)さんが12日午前2時8分、老衰のため、京都府京丹後市の病院で亡くなった。享年116歳。
木村さんは明治30年生まれでした。衷心よりご冥福を祈ります。
明治という時代を知る方々が一人また一人と辞世されていきます。

昨年は明治大帝崩御100年祭でした。
梅雨のこの時期に「雪の句」も不似合いですが、
「降る雪や明治は遠くなりにけり 」
昭和58年に亡くなった俳人、中村 草田男(なかむら くさたお)氏が明治生まれの草田男は、昭和の時代を目の当たりにして、雪が降るという季節の節目に立ち、母校の小学校を尋ねた際に作った句だそうです。
生まれた時代を振り返って、明治という時代が遠くになったものだな、と言う感慨を句にしたものと思います。
近年特に顕著な国力の退化、日本人の道徳観の荒廃、政治家の資質の劣化、日本人として歯痒く、哀しくおもいます。
明治の日本人は気骨にあふれ、たくましかった。日本人であることの誇りを抱き、信念に基づいて世界に飛び出していきました。
明治日本は、才能溢れる人材で満ち溢れ、国民は貧しくとも幸せな生活を送っていたことが、外国から見た明治日本を語る書籍等で多数紹介されています。
政治家にも、世界に誇れる傑物がいますが、世界から賞賛されたのは、多くの軍人でした。
多くのブロガーさんが乃木大将の功績は記事とされているので、乃木静子夫人についてお話ししたいと思います。

静子夫人は、
安政6年11月27日、薩摩の藩士湯地定之の四女にして、鹿児島新屋敷240番地に生まれ、幼名をお七と称し、また志知とも記す。乃木家に嫁いで静子と改められました。母は同藩士池田氏にして天伊(テイ)。
兄姉各三人で、長兄は定基(貴族院勅撰議員)、中兄は定康(海軍大尉)、末兄は定監(海軍機関中将、貴族院勅撰議員)。長姉は早世し、次姉は馬場貞子、末姉は柴てい子、静子は最末の第七子。

明治5年12月2日、父母と共に東京赤坂溜池二番地長兄定基の邸に移る。初め鹿児島に在る時、同地植木氏に就いて読書並びに習字を修めるが、長兄定基がまた大いに奨励する所があり、長ずるに従い益々勉強を怠らなかった。

東京に出て後は、明治7年より6年間、樋口深月に就いて書を学び、かつ麹町女学校で学んでその課程を修了する。 その他に琴曲、生花、点茶、裁縫、諸礼等い至るまで習得した才女でした。



乃木大将が中佐で、熊本鎮台の連隊長であった当時、しばしば母より家妻を迎えろと勧められるので、「鹿児島の女でなければ娶らない」

と返事したことがきっかけで、静子夫人との縁談が持ち上がった。乃木は湯地家について何も知らなかったので、知人に確認などもしたりしていたが、知人の勧めにより、建築中の小屋の落成式に静子夫人を招待することでお見合いをされました。
軍司令官であった野津鎮雄大将は、乃木の妻は湯治の妹に限ると自らすすんで媒酌の労をとった云う。明治11年8月27日、静子夫人は乃木家に嫁ぐ。乃木大将30歳、静子夫人18歳でした。
明治12年8月28日に日露戦争で亡くなった長男勝典を産まれ、同年の冬に、東京赤坂新坂町に邸を構い移籍する。明治14年には日露戦争で亡くなった次男保典を産まれ、なお一男一女を産まれるが二子とも生後間もなく亡くなっている。
姑である乃木大将の母は、厳格にして、礼儀を重んじ、且つ備に家計の困難を甞めたる賢婦人であったので、静子は容易ならざる苦心を要したようです。しかし、乃木希典の甥玉木正之によれば、母君は静子夫人を評し常に、

「親切な人でその親切が真に腹の底から出る様である」
と、云っていたそうである。

乃木大将が官位昇進するも、敢えて家庭の質素を改めず。伯爵夫人たるに及んでも、常に粗末なる綿服を着て、召使の如きも二人の下婢(使用人)、一人の書生を雇うのみ。下婢といえども飯炊き女に過ぎず、仲働きあるいは小間使いの類は一切これを置かず。夫人自ら厨房の事に携わり、来客あれば、必ず自ら烟草盆、茶菓の類を運びてこれを待遇し、もし食事の時刻に至れば、自ら手を下して厨膳を調え、饗応配給また決して人に任せず。元来乃木家においては、特別に案内して多数の来賓を招待する場合の外は、必ず手料理を勧める家例であった。

静子夫人は外出の時は多く電車に乗り、人力車をも雇わず。時には雨路に傘を執りて徒歩することもあり。汽車は二等車に乗り、日用の薪炭米等は、皆那須石林の別荘より取寄せて用い、金銭の収支出納は、細大となく帳簿に記入し、月末これを計算して乃木希典の検閲を受けたりした。大切な物品は基より、いかなる些末の物といえどもこれを粗略に取扱わず。

日露戦争で令息二典戦死の時、宮中及び皇族方より御下賜の菓子折(箱)、並びに乃木希典入院中、宮中より御下賜の菓子折は、最も大切にこれを保存し、その他諸方より到来の菓子折は概ね漆を塗って物入の器となし、流行品の如き衣類は勿論家具等に至るまで、一切家には置かなかったそうです。



乃木大将は明治三十九年一月十四日に凱旋し、明治大帝に復命書を奏上された。

我が将卒の常に強敵と健闘し、忠勇義烈 死を視ること帰するが如く、
弾たおれ、剣にたおるるもの皆、陛下の万歳を喚呼し欣然と瞑目したるは、
臣これを伏奏せざらんと欲するも能はず

涙声とともに下る復命書をお聞きになられた明治大帝は、乃木大将が退出しようとしたとき、呼び止めて次のように沙汰されたという。「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は朕よくこれを知れり。然れども今は卿の死すべきときにあらず。卿もし強いて死せんならばよろしく朕が世を去りしたる後においてせよ」と・・・


四十年、学習院院長に任ぜられ、その精神主義を以って皇族子弟の教育に当るが、四十五年、明治大帝崩御により静子とともに大喪の当日を迎えました。
乃木大将は5時に起床、風呂に入られ、共に宮中に参内しなければならない静子夫人も湯を促した。


7時、女髪結いが来て、いつもと違うお下げに結われた。
8時半に、前夜頼んでいた赤坂の写真師が来た。
宮内省からの出迎えの車も同時に来た。


陸軍大将の正装である大礼服を着て乃木希典大将は表門入り口で直立撮影し、さらにもう一枚、軍服の勲章を全部外して写られた。

明治大帝の棺を仮安置している殯宮で永別を告げられ、伏見宮邸に赴いた。

10時でした。大喪の儀に参列する英国国王の名代コンノート殿下に謁見を賜り、昼前に帰邸。


昼食は自家製で打つそば。
この頃乃木邸は、客をもてなすのにも蕎麦だけであった。
他には何も出さない、「乃木式馳走」と呼ばれた。
後の内閣総理大臣になる田中義一が訪ねた時もそうだった。

田中義一の回想「おらも今は陸軍中将だ。いかに乃木式とはいえ、蕎麦と冷や酒のもてなしとはひどいではないか」と旅順戦の後、乃木大将を更迭しようと唱えた参謀の一人であった、萩出身の田中は友人に愚痴っていた。
しかし、後に「おらは駕籠かきの子に生まれ、武士が切腹の前に蕎麦しか食べないことを知らざった」と、ひどく悔いたという談話を残している。

午後8時、弔砲が撃たれ、各寺院の鐘も撞かれた。


二百万市民は一斉に皇居を遙拝。乃木大将夫妻はこの号砲を合図に自裁されました。

乃木大将64歳

辞世

「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」
「神あかりあかましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる」


乃木静子夫人54歳

辞世

「出てましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふそかなしき」

遺書が静子夫人宛であることから、夫妻揃っての殉死は直前に決められたと言われています。
明治日本は今日と違い、決して裕福な国ではありませんでした。
しかし、国想う国民の思いは今日の比ではありません。
生活が苦しくとも、国を護るという一念で気張っていました。

を拝読し、安倍首相夫人のみならず、今日の政治家夫人の安易な行動を筆者は危惧します。
乃木大将静子夫人、秋山大将多美夫人、秋山中将李子夫人、東郷元帥てつ夫人、児玉大将マツ夫人をはじめ、明治日本の偉人を支えた「内助之功」が今日のわが国の発展に寄与したことは言うまでもありません。

明治大帝の下、協進努力で新時代を築き、明治日本を築いた先人たちの願いは、「道義ある理想の国へ」・・・何よりも原点に立返ることではなかったでしょうか?
明治人の気概、日本人としての矜持、を先人に学ぶべきではないでしょうか?
先人はきっと仰せでしょう・・・乃木夫妻の精神に学べ・・
-明治大帝に聚まれ- と・・・・

明治のこころに学べと・・・

転載元: 美し国(うましくに)


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