君が代
第5回アフリカ開発会議に合わせ、アフリカに貢献した医学・医療関係者を顕彰する日本政府主催の「第2回野口英世アフリカ賞」の授賞式が1日、天皇、皇后両陛下御親覧の下、横浜市内のホテルで開かれた。
式典で安倍晋三首相は式辞を述べた後、医学研究分野で受賞したピーター・ピオット氏(ベルギー)と医療活動分野で受賞したアレックス・コウティーニョ氏(ウガンダ)に賞状と賞金各1億円の目録を贈呈。両陛下も拍手を送りあそばれた。
記念晩餐(ばんさん)会では、畏くも陛下が受賞者2人への祝意を示すとともに「アフリカ大陸に住むすべての人々の幸せを祈り、みなさまとともに杯を上げたいと思います」と叡慮を賜わり、乾杯のあいさつをあそばされた。
医学研究分野で野口英世アフリカ賞を受賞したピーター・ピオット博士=1日午後
医療活動分野で野口英世アフリカ賞を受賞したアレックス・コウティーノ博士=1日午後
ピオット氏はエボラ出血熱などの感染症研究が、コウティーニョ氏は貧困層へのエイズ治療と患者支援の普及が評価された。
野口英世アフリカ賞授賞式の会場で会津彼岸獅子の舞を披露、合唱を披露した福島県立安積黎明高校のある郡山は野口博士の生まれ故郷、猪苗代は近隣しています。
筆者が小学校の頃に学んだ日本人は野口博士でした。
歴史上の有名人、世界的な偉業を成し遂げた人物など、天才・偉人は数多くいますが、彼らにも幼い頃があり、将来のために努力した時期がありました。そして、そこには必ず、彼らを支えてきた人々がいました。
天才・偉人を育てた家族の存在や恩師との出会いは欠かせません。天才・偉人といっても、幼少の頃から完璧だったわけではありません。時には悩んだり苦しんだりして、成長し成功したのです。
野口博士(右)とその母シカ(左)
(野口記念館収蔵)
細菌学者として数々の論文を発表し、ノーベル賞候補にもなった野口博士。福島県の村に生まれた博士は、1歳の時に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、指が固まってしまいました。
成長した英世は、小学校(当時は尋常小学校といいました)の卒業を迎えることとなりました。当時、卒業するためには、卒業試験を受けなければなりませんでした。
博士の卒業試験の試験官を担当したのが、猪苗代高等小学校の小林栄という教師でした。小林は博士の優秀さに感心します。小林が「お前は卒業してどうするのだ」と聞くと、博士は戸惑って「わかりません」と答えました。博士は家が貧しいため、勉強を続けることは諦め、卒業後は家の仕事を手伝わなければならないと考えていました。しかし、火傷を負った左手では難しいとも思っていました。小林はそんな博士に一度自宅を訪ねるように言いました。
数日後、博士は母シカを連れて小林の家を訪ねます。シカは小林に、「先生、どうか息子に勉強をさせてください」と言いました。小林はシカの熱意に応じ、教科書を買うお金などを用意すると約束しました。こうして博士は、猪苗代高等小学校へと進学することができました。
成長した英世は、小学校(当時は尋常小学校といいました)の卒業を迎えることとなりました。当時、卒業するためには、卒業試験を受けなければなりませんでした。
博士の卒業試験の試験官を担当したのが、猪苗代高等小学校の小林栄という教師でした。小林は博士の優秀さに感心します。小林が「お前は卒業してどうするのだ」と聞くと、博士は戸惑って「わかりません」と答えました。博士は家が貧しいため、勉強を続けることは諦め、卒業後は家の仕事を手伝わなければならないと考えていました。しかし、火傷を負った左手では難しいとも思っていました。小林はそんな博士に一度自宅を訪ねるように言いました。
数日後、博士は母シカを連れて小林の家を訪ねます。シカは小林に、「先生、どうか息子に勉強をさせてください」と言いました。小林はシカの熱意に応じ、教科書を買うお金などを用意すると約束しました。こうして博士は、猪苗代高等小学校へと進学することができました。
上京した時博士は、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という有名な言葉を残しました。
その後、博士は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三朗が所長を務める伝染病研究所の助手となり、そこに訪れたシモン・フレキスナー博士と知合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中、ペスト菌を発見するなどの功績を上げます。
そして1904年、フレキスナー博士がニューヨークのロックフェラー研究所長になると、野口英世と改名した博士は「一等助手」として迎えられました。
この研究所で博士は、蛇毒や梅毒、黄熱病の研究に没頭しますが、その熱中ぶりは猛烈で、同僚から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていたそうです。
渡米後12年。世界の野口として認められ始めた息子に、会津の母シカから一通の手紙が届いたのです。(上記画像)
おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。
よこもり(夜籠り)を。いたしました。
わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。
よこもり(夜籠り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。
わたしも。こころぼそくありまする。
ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。
わたしも。こころぼそくありまする。
ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
いしよの(一生の)たのみて。ありまする
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。
ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてわおかみおります。
みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
おかんてもろておりまする。
ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
おかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く)
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
ねてもねむられません
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
ねてもねむられません
シカは学問も無く、字が書けませんでした。しかし、息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、この手紙が書かれたのです。
幼い博士に一生消えないやけどを負わせたことで、生涯自分を責めながら息子の無事だけを思って生きた母。
長年会えない息子に向けて書かれた、たどたどしいその文字から、息子の身を案じる気持ちが痛いほど伝わります。
シカの手紙が、現在このようにして残され、世に広く知られることになったのは、昭和28年、通産大臣などを務めた高碕達之助氏がこの手紙に感動されて、次のような話をされたことによるそうです。
極めて稚拙な筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、
天衣無縫の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、照合しつつ読んでいくうちに、
私はとめどもなく涙が出て困りました。
天衣無縫の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、照合しつつ読んでいくうちに、
私はとめどもなく涙が出て困りました。
極貧の農家に生まれて、幼いうちに両親に別れ、
信心深い祖母の手一つで育てられたシカ女、
信心深い祖母の手一つで育てられたシカ女、
七歳で他家に雇われ、終日子守や野良仕事に追い廻され、
人が寝静まってから月明かりに指で木灰にいろはを書き習ったと云われる彼女、
人が寝静まってから月明かりに指で木灰にいろはを書き習ったと云われる彼女、
想像も及ばぬ辛苦を重ねつつも、
ひたすら観音の教えを信じて逆境に耐え抜いたこの母が、
ひたすら観音の教えを信じて逆境に耐え抜いたこの母が、
博士の成功を祝し、その身を案ずる真心で書き綴ったこの手紙は
正に鬼神をも泣かしめる天下の名文と云えましょう。
正に鬼神をも泣かしめる天下の名文と云えましょう。
時恰(あたか)も初秋、湖畔に佇んでこの文を読み、
子を思う母の至愛に切々として胸を打たれた次第でありました。
子を思う母の至愛に切々として胸を打たれた次第でありました。
国破れて以来、人心荒廃、ややもすれば、忍苦の底に光るこの無限の愛の貴さが
忘却されようとする今日この頃、
図らずもこの偉大な心の資源に触れて近来になく心強く感じました。
忘却されようとする今日この頃、
図らずもこの偉大な心の資源に触れて近来になく心強く感じました。
高碕達之助
博士は、母シカの手紙を受け取って間もなく、1915年に一時帰国をし、万感の想いで待っていた母シカとの再会を果たしました。
その後、1918年から黄熱病の研究のためにエクアドルやペルーなどを回り、黄熱病の薬を作り出しましたが、この薬ではアフリカの黄熱病は治らないという連絡を受けると、今度は1927年からアフリカのガーナに出張します。
しかし、滞在中に自身が黄熱病に罹り、翌年、ガーナで51歳の偉大な生涯を閉じることになります。
ガーナでは、その献身的な治療活動から今でも医聖野口と尊敬を集めており、2002年に来福したクフォー大統領をはじめ、博士の功績を偲んで猪苗代町の生家を訪れる人が、今でも後を絶ちません。
天皇陛下、皇后陛下はじめ、皇族方がいつまでもお健やかであられることを、臣民の一人として祈念します。
皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
日本國民(やまと民族)は皇室と共に・・・・
天皇陛下、皇后陛下 萬歳 萬歳 萬歳