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九人の乙女の悲劇

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樺太でおこった悲劇。

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 昭和20年(1945年)8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破り、日本に宣戦布告しました。樺太では北緯50度線を越え、侵攻してきました。
 8月15日のポツダム宣言受諾後も、ソ連軍による樺太侵攻が行われ、8月20日、真岡に上陸してきました。この時に真岡郵便電信局で仕事を続けていた電話交換手9人の若い女性に悲劇が訪れました。

 16日から民間人は本土へ引き揚げを始めていますが、大半の人は順番待ちをしているところでした。真岡に上陸したソ連軍は女子供にも容赦なく砲弾、銃弾を浴びせかけます。この時、真岡郵便局には交換手12名が残っていました。17歳から24歳の若い女性です。彼女たちは強い意志で残留を希望した人たちでした。

 志賀晴代さん(殉職)の兄・満喜さん

「女子どもは引揚げることになっているのに、中学生を指導してから引揚げることになっているというし、それまで三つ編みにして伸ばしていた晴代の髪がハサミで切り落とされている姿を見て、妹に問い詰められなかった」


 晴代さんは髪をザン切りにし、新聞紙に来るんで妹たちに差出し、
「この髪を一緒に持って行って。わたしの分まで親孝行してちょうだいね」と話かけました。そして戦死した兄・寿治さんの遺品、日の丸をブラウスに腹巻のように巻きつけ、モンペの下にゲートル巻いて職場に行きました。

 運命の20日、ソ連艦隊の急襲の一報の知らせが入り、局員は急いで郵便局へ向かいます。局内にも容赦なく弾が飛び込む中、彼女たちは交換業務を続けます。そしてとうとう九人の交換手が「さようなら」の通信を最後に自決したのです。

 伊藤千枝さん、泊居局への最後の言葉

「もうみなさん死んでいます。わたしも乙女のまま清く死にます。泊居のみなさん、さようなら」


 稚内に建てられた真岡郵便局の九人の乙女の慰霊碑「氷雪の門」には当初、「昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は、青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に、日本軍の命ずるまま青酸カリをのみ・・・」と書かれていました(※1)。当時の日本人は他者から強制された死というのは恥と考えており、他のものから命令されて自決することなどありえません。また命令ではなく、自決に追い込まれていったというどこかで聞いたお決まり論もあるようです。九人は自決しましたが、生き残ることを選択した人もいます。また当初の避難勧告で避難した人もいます。自決した九名は崇高な使命感を持ち職場に残り、自ら命を絶ったのです。


※1 上田局長が否定し、後に「…その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた…」と訂正された。


参考文献
 河出文庫「永訣の朝」川嶋康男(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『樺太真岡郵便局 九人の乙女の悲劇』桜林美佐
参考サイト
 Wikipedia「樺太1945年夏 氷雪の門」「真岡郵便電信局事件」

添付画像 動画より


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あの時のことは、何故忘れ去られたのか?1/13
http://www.youtube.com/watch?v=f4aSf9XEITI
 

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