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淵沢能恵(ふちざわのえ)女史
淵沢能恵(ふちざわのえ)女史は嘉永3年(1850年)岩手県石鳥谷町に生まれました。
女史は米国留学経験もある近代的な女子教育者でした。
東京、下関、熊本、福岡の女学校の教鞭をとられましたが、苦しい生活の中にも常に故郷の養母を思い、幾度となく帰郷し、感謝に意を表す日本女性の範でもありました。明治37年(1904年)、養母永眠を見届けた後、明治38年5月韓国に渡り、韓国の女子教育に残りの人生を捧げようと決意されたのでした。
韓国女性の、あまりにも低い地位に同情されたのです。
ときに能恵女史55歳でした。平均寿命50歳前後であった明治期、齢55歳にして海を渡り、異国の女子教育への挺身を決意し、学校を設立するといったことは正に壮絶な人生であり、「韓国女子教育の母」と呼ばれた、その功績は日本の偉人として顕彰するにふさわしい人物であります。
能恵は明治39年(1906年)、「明新女学校」を創立。学校長に李王朝の李貞淑を迎え、自らは学監となりました。後、「淑明高等女学校」(現、淑明女子中高等学校の前身)と改称。能恵も理事長として活躍し、韓国女子教育の礎を築きました。
女史は米国留学経験もある近代的な女子教育者でした。
東京、下関、熊本、福岡の女学校の教鞭をとられましたが、苦しい生活の中にも常に故郷の養母を思い、幾度となく帰郷し、感謝に意を表す日本女性の範でもありました。明治37年(1904年)、養母永眠を見届けた後、明治38年5月韓国に渡り、韓国の女子教育に残りの人生を捧げようと決意されたのでした。
韓国女性の、あまりにも低い地位に同情されたのです。
ときに能恵女史55歳でした。平均寿命50歳前後であった明治期、齢55歳にして海を渡り、異国の女子教育への挺身を決意し、学校を設立するといったことは正に壮絶な人生であり、「韓国女子教育の母」と呼ばれた、その功績は日本の偉人として顕彰するにふさわしい人物であります。
能恵は明治39年(1906年)、「明新女学校」を創立。学校長に李王朝の李貞淑を迎え、自らは学監となりました。後、「淑明高等女学校」(現、淑明女子中高等学校の前身)と改称。能恵も理事長として活躍し、韓国女子教育の礎を築きました。
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淑明高等女学校
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淑明女学校朝礼での李貞淑校長と淵澤能恵女史 昭和5年(1930年)
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昭和10年(1935)年9月の新聞記事(京城日報)
女史が亡くなる直前に,その功を表彰されたときの新聞記事です。
女史が学校を創立した事も書いてあります。
日本の朝鮮政策に抗する反日運動のさなか、「日韓婦人会」活動をとおして、日韓融和に努めるなど、その功績は大きく、大正4年(1915年)、「従七位勲六等宝冠賞」を贈られました。
昭和11年(1936年)、永眠。齢86歳でした。
女史の人柄を表す証言が村上淑子著『淵澤能恵の生涯』に記載されています。
しかし、八紘一宇、博愛の精神で晩年の生涯を朝鮮の近代女子教育に捧げた女史の偉業は学校設立者、淵沢能恵女史は戦後、設立の時に参加しただけの日本人教師の一人という事に歪曲され設立は高宗王室 厳皇貴姫が行ったものと捏造され淑明女子大学のサイトでは、学校の歴史を載せたページに一ヶ所学校設立の時の協力者・淵沢能恵として歪曲し目立たないように残されるのみとなりました。
「テレビ岩手」は『淵澤能恵 五十五歳で海峡を渡った』を制作、女史の功績は現在、地元岩手で顕彰されています。
現在、韓国の中央日報が日本への原爆投下を「神の懲罰」とする記事を記載し大きな波紋を呼び、外交問題に発展しそうな様相を呈しています。
恩人であっても歴史の一幕から抹消してしまう戦後朝鮮民族。
韓国の近代教育に慈愛の精神で寄与された女史は天界で韓国の現状をどう見ておられるでありましょうか?
女史が亡くなる直前に,その功を表彰されたときの新聞記事です。
女史が学校を創立した事も書いてあります。
以下に新聞画像の詳細を現代語訳にて記載します。
朝鮮を育んだ人々
施政25周年記念開発功労者紙上表彰
女子教育を天職に身心を打込む
今は86の高齢で病床に
女子教育の母,淵沢能恵女史わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治38年に朝鮮へ渡って以来、雨の日も風の日も熱心に教育事業に携わり、今や86歳の高齢に達して病床に横たわる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、女子の教育に投じた人と言える。
そして前年、病に倒れた時、勲六等を授かった。しかし、そこまで漕ぎつけるには血涙を絞るような苦境に立った事も度々有ったようだ。決して愚痴を言わない淵沢さんは、自分から、あれこれと言わないが、第一に朝鮮へ来た早々頭を悩ませた。
女子の教育の必要は言うまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった。自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に話をもちかけて見ると、趣旨には賛成するが、それだけの話で一向に動いてはくれなかった。
悲観した、といって、誰が助けてくれよう。そこでまず厳妃(高宗の継妃)を総裁に迎え、日韓婦人会を創設して、日本、韓国双方の婦人を交際させて、お互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た。ついに時機が到来して支援してくれる人も現われ、ようやく学校を開設することになって、李太王(高宗)に 校名をつけていただくことになった。すると快く『晋信館』とおつけになったが、どうも学校名としてはふさわしくない。それでこれを一旦、お返しして再び校 名をご依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてはどうか?』と言われた。これで『明新女学校』の木の香りもゆかしい看板をかがけて 学校運営を開始したが、結果はなかなか軌道に乗らなかった。
しかし、淵沢さんが朝鮮で女子教育を施そうとしたのは、『日本は朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていま すから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って朝鮮に来たのです』と言うから、確固として動かない信念があった。如何 なる障害に当面しても、それを乗越え、 突き破らねばならぬ。しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった5名という状態に人知れず溜息を洩らすより仕方がなかった。そこで更に各方面を必死に勧誘して新入生も増加した。その努力を評価された英親王殿下(李垠・高宗の第7男子、韓国最後の皇太子)から学校財産として1000町歩(1000ヘクタール)の田畑を贈与されたので、学校の経営はようやく本格的になり、現在では547名の生徒を擁するに至った。
淑明という今の校名は、李太王(高宗)から付けていただいた『明新』は李王垠殿下(李垠)の雅号と同字なので改めようと思っている矢先、明治44年11月朝鮮教育令が実施され、教育内容を充実させると共に淑明女子高等普通学校と改めたものである。
また卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが、その数20数名にのぼっている。これらの教え子は、今いずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている。また一般卒業生のためには淑女会を組繊して、きめ細やかに指導しているの で、慈母の如く親まれている。天職に身心を打込むとはこういう人をいうのだろう。そこで『若き女性に求むるところ』を求めて見ると、肺炎後に扁桃腺炎をわ ずらって、ひからびては痛む咽頭をおさえつつ『私は女性から政治家が出てもいい思っています。しかしそれは100人に1人とか1000人に1人で、政治家 となるべき特質をもったものに限られるべきで、例外の部類です。一般の女性は、家庭にあって夫を助け、妻として又母として自然性に、そむかぬ本分を磨き、 且つその範囲の生活を完全に生活してゆくべきだと思います。女子は家庭という範疇の中で縁の下の力もちとなることを喜び、信仰の生活を忘れてはいけないと 思います』
なお同女史は愛国婦人会の役員や婦人□風会(朝鮮)の会長をしている。
日本の朝鮮政策に抗する反日運動のさなか、「日韓婦人会」活動をとおして、日韓融和に努めるなど、その功績は大きく、大正4年(1915年)、「従七位勲六等宝冠賞」を贈られました。
昭和11年(1936年)、永眠。齢86歳でした。
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女史の人柄を表す証言が村上淑子著『淵澤能恵の生涯』に記載されています。
穏やかな笑顔を絶やさない人
お婆さん(能恵)は、年中笑っているような穏やかな顔をしている人でした。笑うと目が三角になって、笑い皺さえもがとても素敵でした。一緒に生活して、その笑顔を見ると心が温まる思いがして、それだけでも楽しかったものです。
また、お婆さんは、寒い季節になると教え子が編んだ毛糸の帽子をいつもかぶっていました。
そんなわけなので、教え子は、かわるがわる毛糸の帽子をプレゼントしたので、お婆さんは、いろいろな帽子をかぶせられたそうです。この一事をみても、お婆さんが生徒に好かれていた様子が分かります。
私が感激したのは一人の少女(卒業した生徒)がお婆さんを頼ってきたときの出来事でした。
お婆さんは「ああ、よく来た。よく来た」といってとても喜んで少女を抱きしめました。
その少女はみすぼらしくて、とても不潔な感じのする子でした。少女が帰ったあとでお婆さんは虱をもらってしまいました。
お婆さんはそれを知って「いい置き土産をもらったよね」といって明るく笑ったのです。
その後、その少女が見違えるように綺麗になって訪ねてきてくれたとき、お婆さんは以前と同じように「よく来た、よく来た」といってとても喜びました。相手が不潔でも綺麗でもまったく同じように喜んだのです。
お婆さんは、相手がどんな風体の人であれ分け隔てなく愛の言葉をかけ、あたかも自分の子供のように可愛がりました。
その根底には、深い信仰があったからだと思います。すべてが神様の御意志で動いているような人でした。感謝の心を忘れることなく朝な夕なに神様にお祈りをしていました。
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昭和元年(1925年)3月朝鮮総督府内 2列目左より5人目より、淵澤能恵女史、後藤新平、齋藤實総督、留守邦太郎水沢藩主、志賀潔京城帝国大学総長Clik here to view.
しかし、八紘一宇、博愛の精神で晩年の生涯を朝鮮の近代女子教育に捧げた女史の偉業は学校設立者、淵沢能恵女史は戦後、設立の時に参加しただけの日本人教師の一人という事に歪曲され設立は高宗王室 厳皇貴姫が行ったものと捏造され淑明女子大学のサイトでは、学校の歴史を載せたページに一ヶ所学校設立の時の協力者・淵沢能恵として歪曲し目立たないように残されるのみとなりました。
「テレビ岩手」は『淵澤能恵 五十五歳で海峡を渡った』を制作、女史の功績は現在、地元岩手で顕彰されています。
現在、韓国の中央日報が日本への原爆投下を「神の懲罰」とする記事を記載し大きな波紋を呼び、外交問題に発展しそうな様相を呈しています。
恩人であっても歴史の一幕から抹消してしまう戦後朝鮮民族。
韓国の近代教育に慈愛の精神で寄与された女史は天界で韓国の現状をどう見ておられるでありましょうか?