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[転載]一命を賭して神宮領の「神域」に水路を引いた、福井文右衛門

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反省どころか言い訳のオンパレード。民主党は5月11日、東京・日本橋で「公開大反省会」を開催した。菅元首相と枝野元官房長官、長妻厚生労働相の3人が30歳以下の若者の質問に答え、民主党政権を振り返った。だが、菅氏らから真(しん)摯(し)な反省はほとんど聞こえず、目立ったのは官僚批判、自民党批判、自己弁護ばかりでした。
このような連中が国政を担っていたかと思えば、本当に悪夢の3年間でした。
 
しかし、我々の先人は尊敬され、後世に語り継がれる偉人が多く存在します。
一命を賭して神宮領の「神域」に水路を引いた、福井文右衛門もその一人です。
今から約300年前、このあたりは、名張藤堂藩(なばりとうどうはん)の領地(りょうち)で、藩主藤堂高吉の家臣{かしん〕福井文右衛門が保津(ほうづ)村に代官所(だいかんしょ)を設け、保津、上、下御糸五郷や法田、櫛田(くしだ)村といった御糸39カ村の代官として治めていました。
「農民は米を食うな。着物は 木綿 ( もめん ) にせよ。朝は早くから起きて草を刈り、昼は田畑の耕作に精を出せ。晩には縄を 編 ( あ ) め、美人でも 怠 ( なま ) け者の女房とは離婚すべし…」
 これは江戸幕府が農民に対して出した「 慶安 ( けいあん ) の 御触書 ( おふれがき ) 」の一部です。農民たちは 飢 ( う ) えと貧困に苦しんでいました。
当時、 名張藤堂藩伊勢領 ( なばりとうどうはんいせりょう ) だった 出間村 ( いずまむら ) (現在の 松阪市出間町 ( まつさかしいずまちょう ) )の農民たちもそんな飢えのどん底にありました。この地は 櫛田川 ( くしだがわ ) 流域にあるにもかかわらず、耕地は畑ばかりで、水田はほんの少ししかありませんでした。出間村へは、 機殿神社 ( はたどのじんじゃ ) を 迂回 ( うかい ) した用水がありましたが、土地の形が悪いため、十分な水が流れていませんでした。当然、稲作はうまくできなかったのです。
 農民が生活に困っていることを耳にした当時の代官、 福井文右衛門 ( ふくいぶんえもん ) は、ある日こっそりと出間村におもむき、農家の食卓をのぞいてみました。すると真っ白な白米のようなものを食べています。
 「何だ、米の飯を食べているじゃないか」
 福井代官は首をかしげて役所に帰りました。そして 庄屋 ( しょうや ) を呼び寄せ、自分の見たままを話すと、庄屋は福井代官をさとすようにいいました。
 「それは白米ではなく、豆腐のおからの 粥 ( かゆ ) です」
 福井代官は言葉を失いました。それから、農民を救うため、ある決意を固めたのでした。
 水の利用の悪さを解決するため、機殿神社を迂回せず、直接、出間村に水路を引こうと考えたのです。技術的にも難しいことではありません。しかし、これには 厄介 ( やっかい ) な問題がありました。
 機殿神社の神域(神社の境内)は「泣く子も黙る…」といわれた 伊勢神宮 ( いせじんぐう ) 領です。昔から神域は木の一本も草の一つも動かすことを禁じられています。その神域をおかして水路を引けばただではすまず、へたをすれば命も失いかねません。神官の 権威 ( けんい ) と政治力の前に、 外様大名 ( とざまだいみょう ) (徳川氏の家門やもともとの 家臣 ( かしん ) ではない大名)の一代官がたちうちできる道理はありませんでした。
 時は慶安三年(一六五〇年)五月二十日の日暮れ。
 にわかに福井代官は、出間村の村民全員に集まるよう 厳命 ( げんめい ) を出しました。村民たちはなにごとが起こったのかと代官所に集まりました。
 「夜を 徹 ( てっ ) して一晩のうちに機殿神社の神域の東側、なかほどから北に直線に近いくの字形に貫く水路を開け!」
と、福井代官は 号令 ( ごうれい ) をかけました。これは完全に神域をおかすことになります。伊勢神宮のおとがめを恐れて村民たちは取り合いませんでしたが、「村民には決して 難儀 ( なんぎ ) をかけない、安心して工事を実行すればいい」
との福井代官の言葉に力を得て、水を得る工事に取りかかりました。村民たちは福井代官の 陣頭指揮 ( じんとうしき ) のもと、かいがいしく働きました。
 そして翌二十一日の夜明けまでに予定の水路はすっかりできあがりました。水は日の出とともに勢いよく流れました。
 
 
 
 
イメージ 1
今も当時のまま残る「福井水路」
 
 
「水が来たぞ」「これで米をつくれる」
 村民たちから歓声がわき上がります。
 ところが、先ほどまで工事の監督と励ましにあたっていた福井代官の姿が見えません。何をおいても、代官に知らせなくては……と村民一同が代官所に来てみると何ということか、福井代官はすでに 割腹 ( かっぷく ) して果てていました。福井代官は神域をおかした罪を一人で背負って一命をなげうったのです。後をうまく治めるための策のいっさいを次席代官に任せるという内容の 遺言状 ( ゆいごんじょう ) も見つかりました。
 
その遺書には「けさほど流したあの水は、この文右衛門が命に替えて出間村へ贈ったもので、孫子の代まで末長く豊作続けて下され。」と書いてありました。
 
 「村民には絶対に難儀をかけない」
 福井代官が一命を 賭 ( と ) して正義のために起こした行動だったのです。村民は 遺体 ( いたい ) にとりすがって 号泣 ( ごうきゅう ) しました。
 福井代官の 葬儀 ( そうぎ ) は、その半年後に行われました。半年の間に、 藩 ( はん ) と神宮側との間にいろいろな交渉があったのではないかといわれています。
 その後、この水路は「福井水路」「ぶんよむどい(文右衛門樋)」 と名付けられました。福井水路は今も当時のまま堂々と残っており、出間の水田をうるおしています。出間では代々、福井代官のことを言い伝え、毎年田植えの通水初めには「 神事掘 ( しんじほり ) 」といって溝さらいをした後、福井代官をまつっている 神福寺 ( しんふくじ ) で 念仏 ( ねんぶつ ) を 唱 ( とな ) えての 供養 ( くよう ) を実に三〇〇年間ずっと続けています。出間の人々は、いまだに福井代官のことを忘れていません。
伊勢神宮も、下機殿の東の隅(すみ)に、大きな顕彰碑(けんしょうひ)を建ててくれた。

文右衛門の崇高な精神は、いまも立派に出間村に生きているのです。
 
 
イメージ 2
神服織機殿神社東隅にある福井文右衛門の顕彰碑
 
 
筆者は思うのです。
国際人というのは自国の立場でものを話すということ。そのためには自国の歴史や文化、伝統への理解がなければならず、また相手国の歴史、文化を歴史を認識した上で交流していく人を言います。
決して冒頭の動画のような民主党の政治家のようになってはならないのです。
 
「温故知新」とは、昔のことをよく研究し、それを参考に、今つき当たっている問題や新しいことがらについて考えることです。
今日本人に求められているのは、先人の英知に学び、顕彰し、生かし、後世へと紡いでいくことではないでしょうか?

転載元: 美し国(うましくに)


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