歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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憲法制定過程の大疑惑
高知大学名誉教授 福地惇
対日占領政策策定に深く関与したヒュー・ボートン(当時国務省日本課長)は、昭和20年末まで「アメリカ合衆国は、ポツダム宣言で発表された連合国の目標に適う形で日本の憲法改正を行うべきかどうか決断していなかった」と後年証言している(『ボートン回想録・戦後日本の設計者』五味俊樹訳、朝日新聞社刊行)。
そうならば、昭和20年10月初旬には近衛文麿(左写真)と幣原喜重郎(右写真)に別個に明治憲法改正の必要性を示唆しておきながら、近衛は切り捨て、幣原内閣の明治憲法の修正案は問題にならずと斥(しりぞ)け、速成のアメリカ製憲法を押し付けた最高司令官マッカーサーの行動は本国の指令を持たずに以上に敏速だったことになる。
新憲法制定に関するGHQと幣原内閣の折衝過程を概観すると、おおよそ五つの区分でとらえることができる。
① 昭和20年10月9日、幣原喜重郎内閣が成立、同月11日、幣原首相は新任の挨拶にマッカーサーを訪問し「民主化五原則」突きつけられる。
② 10月27日、内閣憲法問題調査委員会の初会合が開かれ(委員長は国務相松本烝治(右写真))、明治憲法の精査が開始される。12月8日、衆議院予算委員会で松本国務相は穏やかな明治憲法改正方針(松本四原則)を説明、憲法草案作成を開始。21年2月1日、毎日新聞が松本試案をスクープするとGHQは厳しい反応を示す。
③ 2月3日、マッカーサー元帥はGHQ民政局に三原則を提示。同月8日、政府はGHQに対し松本案を提出。13日、GHQは松本案を拒絶。「GHQ草案」(マ元帥の幕僚25人が9日間で起草)を政府に手交。
④ 同月22日、閣議でGHQ草案の受け入れを決定。ワシントンで極東委員会第一回会議開催。3月6日、政府は「憲法改正草案要綱」(象徴天皇制、国民主権、戦争放棄を規定)を発表。
⑤ 6月21日、マ元帥が帝国議会での憲法改正案の審議に関する声明(討議三原則)を発表。枢密院と帝国議会の審議・議決を経て11月3日、日本国憲法公布。22年5月3日、憲法施行。
連合国軍最高司令官マッカーサーに日本国は確かに「安全に従属」せしめられたが、ポツダム宣言の精神は「國體の良い面は認める」にある。故に降伏直後に戦勝国から憲法改正を要請されたとしても、それは宣言の条項内に限られていると解釈できる。当初、幣原首相らはそう理解していた。マッカーサーもまた、「最高司令官は(ポツダム宣言に基づいて)列挙した諸改革の実施を日本国政府に命令するのは最後の手段としての場合に限る」と本国政府から指令されていた。
にもかかわらずマッカーサーは、何の抵抗もしない日本側に自作の原案を下賜し、「極東委員会の脅威」論をチラつかせて「最後の手段」に出たのである。最悪の事態を恐れた日本側は生真面目に粛々と「明治憲法改正の儀式」を進めた。「日本製憲法」だと嘯(うそぶ)く起草者代表は、「この種の重要な文書でこれほど注目を集め、開放的に討論されたものは、米国憲法も含めて他に例がないと思う。新憲法は、実際には旧明治憲法の改正という形をとった。特にそうしたのは継続性を持たせたいという考えから出た」と主語が誰なのかわからない証言を残している(『マッカーサー回想記』)。
マッカーサーは昭和21年6月21日、「帝国議会での憲法改正案の討議三原則(審議に充分な時間を尽くすこと、明治憲法との法的継続性を保証すること、国民の自由意思表明に基づく採択であること)を日本側に命じた。そして改正憲法公布の詔書にも、「朕は日本国民の総意に基づいて・・・・枢密院の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の決議を経た帝国憲法の改正を裁可しここに公布せしめる」とある。だが、「前文」には「日本国民は(中略)ここに主権が国民の存することを宣言し、憲法を確定する」とあり、これは誓約を踏み躙った國體壊滅の宣言であると言わざるを得ない。重大な問題は、現憲法の制定過程にポツダム宣言に違反の疑惑が濃厚だという点である。
制定過程に限らず憲法の内容も大問題である。・・・・
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