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良識ある日本国民の皆様には、対馬の仏像盗難事件を受け対馬市が今年の日韓交流イベントを中止することはご存知だと考えます。
対馬の日韓交流イベント、「仏像」問題で中止にhttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130418-OYT1T00811.htm
長崎県対馬市の寺から盗まれた仏像が韓国から返還されない問題を受け、同市で毎年8月に開かれている日韓交流イベント「厳原港まつり対馬アリラン祭」のハイライトを飾る「朝鮮通信使行列」が、今年は中止されることになった。
行列を主催する地元振興会は「住民感情を考えると中止せざるを得ない。韓国への抗議の意味もある」としている。
朝鮮通信使は、江戸時代に李王朝から派遣された友好使節団で、対馬藩が江戸まで案内した。当時を再現する行列は1980年に始まり、韓国からの参加者を含めた約400人が民族衣装などを身にまとい、にぎやかに練り歩く。
行列を主催する朝鮮通信使行列振興会が17日に総会を開き、「仏像問題が解決しておらず、例年のように実施できる雰囲気ではない」として中止を決めた。来年以降については未定という。祭りの名称から韓国語の「アリラン」という表記を削ることも検討されている。
2013年4月18日読売新聞
>長崎県対馬市の寺から盗まれた仏像が韓国から返還されない問題を受け、同市で毎年8月に開かれている日韓交流イベント「厳原港まつり対馬アリラン祭」のハイライトを飾る「朝鮮通信使行列」が、今年は中止されることになった
対馬市は今年だけ中止にするのではなく、韓国人が日本を馬鹿にする見世物、「朝鮮通信使行列」そのものを廃止にするべきです。
2005年3月18日、韓国の馬山市議会(現在の昌原市)は、「對馬島の日」(対馬の日)条例を可決しました。
条例は、「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定しています。
3月19日、対馬市議会は「対馬は韓国の領土だ!」と対馬の領有権を主張している、韓国の昌原市議会訪問団との面談を拒否する決定をしました。
それなのに、4月15日に昌原市議会は、李承晩元大統領が対馬返還要求をした内容を、歴史教科書へ明記を要求する建議文を全会一致で採択しました。
イ・スンマン対馬島返還要求、教科書明記要求建議文http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1366237368/
‘李承晩(イ・スンマン)大統領の対馬島(テマド)返還要求のわが歴史教科書明記を促す対政府建議文’が去る15日、昌原市(チャンウォンシ)議会本会議で全員一致で採択された。
市議会は建議文を通じ、李承晩元大統領が去る1948年8月18日に記者会見を通じて「私たちは日本に対馬島を韓国に返還することを要求するつもりだ」と話すなど、公式席上で対馬島問題を挙論した内容を歴史教科書に載せてほしいと要求した。合わせて議会は「政府はこれ以上、日本との外交的紛争を言い訳にせずに、対馬島が歴史的、地理的、文化的、国際的に明白な私たちの領土であることを明らかにしろ」と圧迫した。
慶南道民日報(韓国語) 2013.04.16
「朝鮮通信使行列」がある対馬の祭は、1980年に「厳原港まつり」として第1回目を開催しました。
しかし、韓国人が参加者の半数を占めるようになったことから、「厳原港まつり対馬アリラン祭」に名称が変更され現在に至っています。
「厳原港まつり対馬アリラン祭」に来る韓国人は、「朝鮮通信使行列」を見ながら「日本に先進学問と技術を教えてやった」と、日本を馬鹿にしているのです。
韓国は、江戸時代の李氏朝鮮の外交使節団「朝鮮通信使」についても、歴史を捏造して韓国人に反日教育をしています。
日本との関係
壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。
江戸時代の日本は、明らかに朝鮮よりも進んだ国家でした。
「日東壮遊歌」からは、当時の朝鮮がどのように日本を見ていたかを知ることができ、著者、金仁謙の驚嘆、羨望、嫉妬、憤りなどが率直に描かれています。
『日東壮遊歌』 (現代語訳)
●1764年1月22日 大阪
●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。
●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
●1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。
●1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
朝鮮通信使とは、お寺に魚や肉を持ち込んで食い散らかし、日本人下女を孕ませ、鶏などを盗み、対馬藩の通訳が朝鮮人の窃盗を非難すると逆切れして暴力を振るっていたのです。
腹が減ると生肉を意地汚く食べ散らかす野蛮人
古来より現在に至るまで、朝鮮半島が日本列島よりも先進地域だったことは一度もありません。
平安時代も、鎌倉時代も、室町時代も、江戸時代も、朝鮮の技術水準や文化水準が日本より高かったことはありません。
平安時代も、鎌倉時代も、室町時代も、江戸時代も、朝鮮の技術水準や文化水準が日本より高かったことはありません。
朝鮮半島の李氏朝鮮は、徳川幕府を上回る500年の歴史がありながら、文化文明が停滞したままで、日本の平安時代よりも遅れていました。
木を曲げて実用に耐える車輪を作る技術がなく、両輪を使った車は19世紀に入り文化が流入するまでなかった。
日本の技術を学んで帰った通信使富嶽三十六景に描かれた「隠田の水車」
では、日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙( 紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
だが残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭楮の軽沢精緻に如かず」と、日本の楮(こうぞ)である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し維持するだけの土壌が整っていなかったことを示している。これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『 徒然草 』( 第五十一段)に記されている。その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。
「日韓・歴史克服への道」下條正男 展転社
脱穀などに用いた大型の水車
>来年以降については未定という。祭りの名称から韓国語の「アリラン」という表記を削ることも検討されている
韓国は、国際法を無視して対馬から盗んだ仏像を日本へ返還しないのであり、「アリラン」という表記もやめるべきです。
自民党の佐藤正久参議院議員は、
「対馬の『厳原港まつりアリラン祭』から『アリラン祭』の文字が対馬自身の意向で消えるという。韓国の仏像未返還問題の影響だ。韓国からの観光客が減っても守るべきもっと大事なものがあるという事だ。支持!」
とツイッターでエールを送っています。
4月1日放送のテレビ朝日「ビートたけしのTVタックル 3時間スペシャル」で、対馬の仏像盗難事件を取り上げました。
■動画
2013年04月01日 TACKLE 1
田中前住職
「今思うと25~6年前にですね、突如その浮石寺という和尚さんが突然やってきました。観音寺に。で、藪から棒に、突然、これは元々うちのもんだと。私の財産を返せとか」
対馬市が今年の日韓交流イベントを中止しますが、韓国は「朝鮮通信使」の歴史を捏造しており、「アリラン」表記も「朝鮮通信使行列」もやめるべきです。
良識ある日本国民の皆様、対馬についてご考慮下さい。
対馬に泥棒韓国人を来させるな!
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