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[転載]文字、ことばに見るわが国の特質

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わが国の最古のヲシテ文字



漢字以前の日本で、縄文時代から使用されていた文字、これを、「ヲシテ」といいます。
「ヲシテ」文字とは、考古学に言う縄文時代からの「日本固有文字」です。
ヲシテで記された、ヲシテ文献は、「ミカサフミ」・「フトマニ」・「ホツマツタヱ」 の三文献が、現在までに発見されています。
また、学校で習った音と訓の区分でいう、訓がほぼ「やまとことば」。この「やまとことば」では、「は」は、歯でも葉でも端でもある。そこで、漢字を取り払って、日本語を「ひらがな」でみてみると、本来の日本のことばが持つ、その豊かさや古代人の意識、こころが見えてきます。

顔には、目があって鼻がありますが、なぜ、目を「め」、鼻を「はな」、耳を「みみ」というのでしょうか?

まず、「め」「はな」「みみ」と、ひらがなで見てみます。すると、植物の芽、花、実、との類似性に気づきます。目と「芽が出る」の「芽」、鼻と「花が咲く」の花、耳は「実がなる」の「実」が2つくっついているものです。

このように、顔の中に植物の成長過程や部分の名前が入っているのは、決して偶然ではなく、自然の摂理に則した根拠があるのです。

生き物の感覚機能はたくさんありますが、目で見ることは最も基本の動作であり、最後に耳で受領することによって、認識のプロセスが完結するものです。一方、植物の成長過程は、まず芽(目)があって、花(鼻)が咲く。そして、末端の「は」=「端」に葉(歯)が出て、成熟した実(耳)で完結します。

こうしてプロセスを考えると、どうして目を「め」と言い、耳を「みみ」と言うか、分かってきます。

また、鼻というのは顔の真ん中に突き出していて、呼吸をつかさどる重量な器官であり、命の根源。そういうものが「はな」。そして植物の枝先に咲くのも生命の輝きを感じる「はな(花)」。つながっているのです。

現代では、目と芽、鼻と花、耳と実、それぞれ別物になりますが、古代人は同じものと考えていました。もしくは、同じ働きするものとして、自然の摂理に基づき、広く深く考えていたのです。

こうしてみると、古代の日本人の心の豊かさ、森羅万象すべてのもの神が宿り、自然とともに生きた古代日本人に感嘆します。また、現在の自然科学の知見を、すでに何千年も前に認識していた事に驚きます。


今日私たちは、漢字と仮名と英文字とが混ざった文章を、ごく自然に使っていますが、実は、この日本語の在り方の中に、わが国の文明の特質が集約されているのです。


わが国では、いつごろから
漢字が使われるようになったのでしょうか。紀元後1世紀の半ばのものである「漢委奴国王」の金印が北九州で出土しています。ですから、このころには、シナ文明の文字文化を受容していたのでです。大和朝廷の時代には、相当広く文字が使われ、5世紀半ばには、部分的とはいえ、訓仮名の使用が始まっていたと見られています。

 訓仮名とは、漢文をその語順のままシナ語の発音で読むのでなく、日本語の語順に読み替え、単語によってはやまとことに移し替えながら、和訓で読みました。この訓読という方法は、外国語を受け入れながら、それを自国の言葉の規制下に置こうとするものですが、訓読によって、わが国は、外国語より自国語が下位になる二重言語(バイリンガル)国家に変貌するのを防ぐことができました。そして、漢字を通じてシナの高度な文明を導入しながらも、やまとことはに込められた日本文化の主体性を失わずに済んだのです。むしろ外国語を自国語の中に取り込んでしまうことによって、日本語そのものをさらに豊かにしたのです。訓読はそれ自体、素晴らしい発明でした。実に主体的な方法によって、漢字の習得・使用が勧められたのです。


その後、
私たちの先人は漢字を使いこなし、8世紀には『古事記』『日本書紀』という日本文明を代表する文献を生み出しました。記紀は漢文で表記されていましたが、やがて私たちの先人は漢字から表音文字を取り出して、音を表わす道具にしました。9世紀初めには、『万葉集』の編纂が始まります。『万葉集』では、漢字を表音文字として使う真仮名(いわゆる万葉仮名)が駆使されています。さらに、私たちの先人は、漢字をもとに、独自の文字を作ったのです。9世紀には、片仮名・平仮名が発明・使用されました。これは画期的なことであり、私たちの先人は、独自の文字を手にしたのです。


9世紀末、寛平6年に遣唐使が廃止されました。7世紀の遣隋使以来、積極的にシナ文明を摂取する文化活動は、ここに区切りを迎えました。遣唐使廃止の前年に出た『新撰万葉集』上巻は、漢字のみで表記されていました。ところが、その約10年後の延喜5年には、平仮名を使った『古今和歌集』の勅撰が始まりました。『古今集』は、わが国初の勅撰和歌集であり、醍醐天皇の勅命によって収集・編纂が行われました。そして、ここでは、漢字に混じって仮名が使われています。いわゆる漢字かな混じり文の登場です。仮名を作っても、漢字の使用を止めるのではなく、漢字と仮名を両方とも使うのです。このことによって、日本語(
やまとこと)を漢字と仮名で自由に表記できるようになりました。


言語学者の鈴木孝夫氏は、次のように評価しています。

 「日本語の仮名のように、借用した文字を、すべて痕跡を止めないほど改変して、自分の音韻体系に合致した新たな文字を作り出した例は少ないのみならず、元の素材である文字をも、そのまま用い続けるという二重構造は他に例を見ない」
 これは日本文明の創造力と包容力をよく示す事実です。
 高森明勅氏は、のように述べています。
 「仮名の創造は日本文明の独特な発展に大きな貢献をしている。そのなかでも大切なのは、大和言葉(和語)の保存だ。‥‥日本人のながい精神生活からうまれ、生長してきた和語には、たんなる意味や概念におきかえることのできない情感がひそんでいる。仮名はそれを守り、伝える力をもった」と・・
 仮名は、日本文明がシナ文明から自立するための土台となったともいえます。

比較文化学者でもある渡部昇一氏は、次のように述べています。

 「漢文・漢詩という外来のシナ文化が浸透し、それが完全に日本の文化として消化した時、『漢字混じりかな書き』という表記法が確立されていくのです」「しかも、漢字は、漢読みである音(おん)と和読みである訓(くん)が全く分けられて使われるのではなく、渾然として、つまり音訓自在に読まれていくのです。そういう芸当が抵抗なく日常で行われるようになっていくのです。表音文字と表意文字を混ぜるということからして奇異なのに、同じ漢字を何様にも読むというのですから、これは妙なる共存と呼ぶしかありません」

やまとことのはと、漢字を融合させ、発展させてきた私たちの先人を思いをよそに、今日、パソコンですぐに難しい漢字が出てくるためになおさら安易に漢字を多用する傾向があるといわれていますが、書くことはできません。
国文学者の中西進氏は、漢字依存が大和言葉のもつ本来の意味を失わせてしまい、例えば、「かく」に「書く」、「描く」などと漢字を変えて区別するようになったことにより、縄文式土器を製作する際、柔らかい粘土を先の尖った物で引っ掻いて模様を描くことからわかるように、掻いて表面の土や石を欠くという「かく」の本来の意味がわかりにくくなったと指摘されています。
美し「やまとことのは」をなおざりにし、次々と意味不明なことばも氾濫しています。
かつて、民俗学者の柳田国男は「どんな字を書くの?」と尋ねることを、「どんな字病」と名づけ、警告したそうです。
しかし、その警告の甲斐なく、現代は、より「どんな字病」がひどくなり、先人の思いを知る「やまとこと」の存在すら蔑ろにしていく今日の日本人を本当に日本人と呼べるのでしょうか?


転載元: 美し国(うましくに)


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