拙稿をご覧いただいている皆様は、明治維新の英傑・西郷南洲翁(隆盛)には、これといった著書、お寫眞すら残されていないことはご存知だと思います。
わずかに南洲翁の言葉を伝えているのが、『西郷南洲遺訓』です。『遺訓』は南洲翁が生前語った言葉や教訓を集めたものであり、南洲翁が書かれたものではありません。
編集は、薩摩人によってではなく庄内藩(山形県鶴岡市付近)の藩士たちによってなされました。
内村鑑三は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者ですが、世界に向けて書いた英文の名著『代表的日本人』で、第一に西郷南洲翁を挙げ、次のように述べています。
「維新における西郷の役割をあまさず書くことは、維新史の全体を書くことになるであろう。ある意味に於いて、明治元年の日本の維新は西郷の維新であった。…余輩は、維新は西郷なくして可能であったかどうかを疑うものである」
このように西郷南洲翁を称える内村は、西南戦争における西郷南洲翁の死を悼み、「武士の最大なるもの、また最後のものが世を去ったのである」と書きました。
維新前夜の戊辰戦争の時、庄内藩は最後まで抗戦しましたが利あらず、遂に城を明け渡すことになりました。厳罰を覚悟した庄内藩でしたが、官軍から何ら恥辱を受けず、きわめて寛大な処置だったのです。
後日それが南洲翁の指示によるものであったことを知り、庄内藩士たちは南洲翁の度量の大きさに魅了されたのでした。庄内藩は親書をもった使者を薩摩に派遣し、藩主酒井忠篤以下76名が南洲翁を訪ね面談しました。その後も庄内藩士は南洲翁に教えを受け、薫陶を受けました。やがて彼らは南洲翁から聞いた言葉をまとめ、『西郷南洲遺訓』を作成したのです。これが南洲翁の偉大さを今日に伝える珠玉の文集となっているのです。
南洲翁は、無私の人です。『遺訓』には、その南洲翁の公と私についての考え方が表れています。
「小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ」
小人とは徳のない人間です。君子は徳の高い人間、大人物です。西郷は自分の利益を図ることは私であり、人民の利益を図ることは公だといいます。民利公益を追求する者は栄えるが、私利私欲を追求する者は亡びると、彼は言っています。
「廟堂(びょうどう)に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些(ちつ)とも私を挾みては済まぬもの也」
廟堂とは政府のことです。国の政治を行うことは、天地自然の道を行なうことであるから、たとえわずかであっても私心を差しはさんではならない、と南洲翁は諭されています。
「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじき)也。今となりては戊辰の義戦も、偏(ひとえ)に、私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻(しき)りに涙を催されける」
南洲翁は明治政府の指導者が、公を忘れ私に走る姿を見て、悲嘆していました。維新創業の時というのに、贅沢な家に住み、衣服を飾り、きれいな愛妾を囲い、私財を蓄えることばかり考えるならば、維新の本当の目的は遂げられないだろう。今となっては戊辰戦争もひとえに私利私欲を肥やすためとなり、国に対しても、戦死者に対しても申し訳ないことだと言って、南洲翁はしきりに涙を流されたのです。
南洲翁は「児孫のために美田を買わず」という七言絶句の漢詩を示し、もしこの言葉に違うようなことがあったら、西郷は言うことと行いとが反していると見限りたまえと言われたそうです。実際、南洲翁はその言葉どおりに実行しました。こうした南洲翁の姿勢は、まさに奉私滅公の精神の表れでした。その精神は、次の一句に最もよく示されていると思われます。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
命も名誉もいらない、官位も金もいらないというような人は扱いに困る。しかし、このような人物でなければ困難をわかちあい、国家のために大きな仕事を成し遂げることはできない。この言葉は、山岡鉄舟のことを語ったともいわれますが、南洲翁自身がこのように私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる人間だったのです。
今日、わが国では、南洲翁のように「公」の精神をもつ若者の活躍が、期待されているのです。誠をもって公に報じる人にとって、『西郷南洲遺訓』は座右の書となるはずです。
南洲翁を敬愛した内村鑑三は、南洲翁の内面に深く思いを致します。『代表的日本人』に内村は書いています。尊敬する徳川斉彬と藤田東湖を失ったとき、西郷は孤独の中に住み、自己の心を見据えました。そして、「西郷はその心のなかに自己と全宇宙より更に偉大なる『者』を見出し、その者と秘密の会話を交わしつつあった、と余は信ずる」と。そして内村は、「天との会話」の中から、西郷の次のような言葉が生まれたといいます。
「人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
すなわち、人を相手にせず、常に天を相手にするよう心がけよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、決して人の非をとがめるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ。
「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり」
すなわち、道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人は道にのっとって行動すべきものであるから、まず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も同じように愛するものだから、自分を愛する心をもって人を愛することである。
これは、有名な「敬天愛人」の思想ですが、内村は、明治維新における「出発合図者」(スターター)「方向指示者」(ディレクター)としての西郷の常人に絶した活動力は、この信念から発していると述べています。
「敬天愛人」とは、南洲翁が創った言葉ではなく、支那の古典にある言葉です。「道」という概念も同じです。しかし、南洲翁の「天」や「道」は、支那思想の受け売りではありません。
幕府の官学は、朱子学でした。南洲翁も四書五経や朱子を学ばれた。
しかし、薩摩藩では、国学も盛んであり、国父と言われた島津久光は、国学の大家とも言われていました。。
南洲翁は、やがて先輩・友人・同志の影響によって、本居宣長や平田篤胤を学び、なかでも先輩の竹内伴右衛門は篤胤生前の門人でした。竹内は「皇道唯一(すめらぎの道ただ一つ) こをおきて仇の小径に よためやも人」という篤胤直筆の和歌を、座右にかかげていました。
このようなことから、南洲翁の「敬天愛人」には、わが国固有の思想が含まれていると考えられるのです。その傍証として、南洲翁は36歳から38歳まで、第2回の島流しの身となりました。沖永良部島の獄中で、死を覚悟された南洲翁は、「獄中有感」と題する詩を詠まれました。その一節に、「生死何ぞ疑わん、天の付与なるを。願わくは魂魄をとどめて、皇城を護らん」とあります。「皇城」とは、宮中のことです。自分が死んでも魂となって、天皇を護りたいという願いを歌っています。こうした勤皇の精神は、外国思想(儒学)のみで養われるものではありません。
君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末
文久3年4月、坂本龍馬が詠んだと伝えられる歌です。
君とは、当時の志士において孝明天皇です。龍馬の尊皇と愛国の思いが滲みでています。尊皇、勤王の「志」があってこそ、明治維新は成り、近代国家への道が開けたのは言うまでもありません。
このように見てくると、南洲翁の「敬天愛人」は、天地自然の道に従う思想というだけではないことがわかります。大西郷の「敬天愛人」には、わが国に伝わる神の道に従うという意味があり、また天皇への忠義の念が込められていたのです。南洲翁に限らず、維新の志士たちは、わが国の伝統・国柄を学び、そこから新しい変革のエネルギーを得ていたことを忘れてはならないでしょう。
心血を注ぎ、命を賭け、先人は我々に近代国家を残していただいた。
現世に生きる我々は後世の子孫に何が残せるでありましょうや?