福澤諭吉翁
拙ブログでも度々紹介させていただいていますが、わが国で初めて文明論を説き、文明という観点から国是・国策を論じたのが、福沢諭吉翁です。
福沢翁は、幕末から明治の時代に、西洋に渡航して実情を見て、日本人に西洋の新知識を伝え、これからの日本人はどうあるべきかを訴えました。そのポイントとなったのが、日本の国柄を踏まえ、独立を守るために、西洋近代文明を摂取すべきとする文明論です。
福沢翁は安政2年より、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学び、西洋の医学や科学・技術を学びました。これが福沢翁の知識の基礎となりました。
その後、いち早く英語の重要性を見抜き、独力で英語を習得して、欧米の政治や経済、社会思想なども貪欲に吸収されました。その旺盛な好奇心と鋭い理解力は、驚嘆に値します。
万延元年、福沢翁は咸臨丸に乗ってアメリカに行き、その後、欧州も訪れ、西洋近代文明をつぶさに見聞されました。その経験をもとに書いたのが、著書『西洋事情』でした。幕末の知識人でこの本を読んでない人はいないというくらいに、よく読まれました。当時の偉人はみな『西洋事情』を通じて西洋諸国のことを知ったのです。
維新後、福沢翁が、広範な知識と深い洞察をもって、これから日本人は何をすべきかを説かれたのが、『学問のすすめ』です。
『学問のすすめ』の第1篇は、明治5年に発表されました。これはわが国はじまって以来の大ベストセラーとなりました。
『学問のすすめ』の冒頭は、誰でも知っているほど有名です。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。この一句を、人間は平等でなければならないという意味だと思っている人が少なくないようです。確かに福沢翁は、人間は生まれながらに平等だと言っています。しかし、その本来平等たるべき人に違いが生じるのは、ひとえに学問をするか、しないかによると、結論されています。機会は平等でも結果は努力によって異なるのです。それが、彼が『学問のすすめ』を書いた理由です。
福沢翁が勧めた学問は、旧来の儒学ではなく、新しい「実学」でした。「実学」とは、サイエンスです。サイエンスといっても、自然科学のことだけではありません。政治学や経済学や倫理学など人文科学も含めた、近代西洋生まれの実際的な学問を意味します。そして、福沢翁は日本が文明化すること、言い換えれば西洋にならって近代化することを唱導されたのです。
しかし、福沢翁が説かれたのは、日本を西洋化することだったのでしょうか。否、話はそう単純ではありません。問題は、なぜ福沢翁は、西洋文明の摂取、西洋科学の習得を力説したのかです。それは、わが国の独立を維持するためでした。
『学問のすすめ』で福沢翁は、無批判な西洋賛美を戒めておられます。そして全巻の結論において、日本にとって文明が必要なのは、国の独立を守る手段であると述べてられているのです。すなわち、「国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」と、福沢翁は明言されています。列強がアジアに進出し、インドや支那が列強に思うようにされていた当時の極東アジア情勢において、独立を守ることは、至上命題でした。
福沢翁は明治8年に刊行した『文明論之概略』でも、同じ主旨のことを説かれています。
「目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明らかにして、我本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むべからず。今の日本国人を文明に進むるは、この国の独立を保たんがためのみ」
そして、福沢翁は国の独立を保つために必要なのは、個人個人の独立心だと訴えました。
「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」
この最後にある「一身独立して一国独立する」ということこそ、福沢翁が日本人に最も訴えたかったことでしょう。
2月18日、安倍総理の施政方針演説も福沢翁の「一身独立して一国独立する」を引用されています。
独立心とは、愛国心に裏付けられてこそ、もち得るものであり、福沢翁自身、強い愛国心を抱き、わが国の国柄を尊び、皇室を敬う尊皇の士でした。この点を理解して初めて、福沢翁のいう「独立心」の意味も明らかになります。
『文明論之概略』で福沢翁は次のように述べています。
「日本にては開闢(かいびゃく)の初より国体を改(あらため)たることなし。国君の血統もまた連続として絶たることなし。ただ政統に至てはしばしば大いに変革あり。…政統の変革かくの如きに至て、なお国体を失わざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行い、外国の人へ秋毫(しゅうごう)の政権をも仮(か)したることなければなり」
つまり、わが国は国の初めから、国体つまり国柄の根本が変わることがなかった。皇統も連続して絶えることがなかった。政権はしばしば変わったが、國體が失われることはなかった。それは外国の支配を受けることがなかったからだ、と福沢翁は自らの歴史観を語ります。これは、幕末・明治の日本人の共通認識であり、日本国民の常識でもありました。また、こうした自国の歴史に対する歴史観が、福沢翁の愛国心の骨格となっています。
福沢翁は述べています。
「この時に当て日本人の義務は、ただこの國體を保つの一箇条のみ。國體を保つとは、自国の政権を失わざることなり」
この時つまり明治8年において、日本人の義務は、國體を保つという一事にある。國體を保つというのは、自国の政権を失わないことであり、外国の支配を受けることなく、日本人が自らの民族による政権を守ることだと福沢翁は言っているのです。
さらに福沢翁は述べています。
「政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず。その条目は甚だ多しといえども、智力発生の道において第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」
日本人自らによる独立政権を失わないためには、国民の知力を向上させなければならない。知力を発達させるために、しなければならないことはたくさんあるが、第一の急務は、古い慣習への惑溺を一掃して、西洋近代文明の精神を採り入れることだ、と。
福沢翁の主張の背景には、幕末から明治にかけて、わが国が欧米列強の脅威にさらされていたという現実があり、福沢翁は、この厳しい国際環境において、日本人は白人の支配に屈するものかという強い気概をもつべきだと、国民同胞に訴えていたのです。これこそ、福沢翁の独立心が、強い愛国心に裏付けられていることを示すものです。
福沢翁は、後年になるほど、皇室に対する敬愛の念を強めていきました。帝国議会開設に先立つ明治15年、福沢翁は『帝室論』を著し、わが国の皇室を論じています。「帝室」とは、皇室を意味します。
「今日、国会の将に開かんとするに当たって、特に帝室の独立を祈り、遥かに政治の上に立ちて下界に降臨し、偏りなく党なく以て其の尊厳神聖を無窮に伝えんことを願う」
つまり福沢翁は、皇室は政治の上に立ち、不偏不党の立場にあるべきだとし、皇室の尊厳と神聖を未来永遠に伝えることを願ったのです。同書で福沢はこう書いています。
「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し」
皇室は日本国民の精神を統合する中心である。その功徳は極めて大きいと福沢は考えていました。続けて福沢翁は述べます。
「国会の政府はニ様の政党相争ふて火の如く水の如く盛夏の如く厳冬の如くならんと雖(いえ)ども、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は其冷たること水の如く。其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(いかり)を解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり」
福沢翁は、皇室は、政治の外にあって、その徳によって国民に和をもたらすような存在であるべきだと説いています。
福沢翁は『学問のすすめ』で国民と政府についても述べられています。
西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政府あるなり。仮に人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛やかなるとは、ただ人民の徳不徳に由って自ずから加減あるのみ。
現代語訳すると次のような大意です。
西洋のことわざにある、(愚かな民の上には、厳しい政府がある)というのはこのことだ。これは政府が厳しいというより、民が愚かであることから、自ら招いたわざわいである。愚かな民の上に厳しい政府があるとするならば、よい民の上には、よい政府がある。という理屈になる。いまこの日本においても、このレベルの人民があるから、このレベルの政府があるのだ。
もしも、国民の徳の水準が落ちて、より無学になることがあったら、政府の法律もいっそう厳重になるだろう。もしも反対に、国民がみな学問を志して
物事の筋道を知って、文明を身につけるようになれば、法律もまた寛容になっていくだろう。法律が厳しかったり寛容だったりするのは、ただ国民に徳があるかないかによって変ってくるものなのである。
もしも、国民の徳の水準が落ちて、より無学になることがあったら、政府の法律もいっそう厳重になるだろう。もしも反対に、国民がみな学問を志して
物事の筋道を知って、文明を身につけるようになれば、法律もまた寛容になっていくだろう。法律が厳しかったり寛容だったりするのは、ただ国民に徳があるかないかによって変ってくるものなのである。
愚かな民主党政権を生んだ土壌は、現代の日本国民の無学にあるのと・・・
福沢翁は、単なる文明開化論者ではありませんでした。日本の独立維持を訴え、愛国心と尊皇心を持つ日本人でした。その言説には、維新の志士たちに連なる、日本人の精神が脈打っているのです。
この点を理解する時、「独立心をもて」という福沢翁の訴えは、私たちの心に、一段と強く響いてくるでしょう。
福沢翁は明治34年に亡くなりました。戦後の日本は、敗戦国としてアメリカの占領を受け、その後もアメリカの強い影響下にあります。物質的には福沢が想像できなかったほどの豊かさを手に入れましたが、国の独立ということに関しては、逆に大きく後退しています。国民の多くは独立心を失い、政府は外交や国防を他国に依存しています。日本人の多くは日本人としての誇りや自信をも失っているようです。
私たち現世の日本人は、福沢翁が文明化の目的とした、国の独立ということをしっかり考えていかねばなりません。そして、独立心を持て、独立心は愛国心からだ、という福沢翁のメッセージを受け止めたいものです。
そして、21世紀の今日、日本国と日本文明のあり方を考える際、福沢翁の訴えは、いよいよ深く、しっかりと理解する必要があると筆者は強く思うのです。