「なぜ日本兵は世界最強だったか」
『言志』編集長 水島 総
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」は、『葉隠』(山本常朝
著)の有名な言葉で、武士道の真髄を示すと言われて来た。
武士は死を厭わず、常に死ぬ覚悟で物事に打ち込むことだとの意味
と解釈されているが、学生時代、初めて「葉隠」を読んだ時、この
「死ぬ事」の意味が、現代人のわれわれとは何か違うと感じていた。
特に「赤穂義士」討ち入りについての批判に、鮮烈な印象を受けた。
常朝は、長期間綿密に計画され、実行された討ち入りなど武士道に
あるまじき所業と断じている。
武士ならば、主君切腹の翌日、即座に吉良邸に討ち入り、全員斬り
死にするのが本物の武士道だというのである。
確かに、赤穂浪士たちの討ち入りの理由は、「喧嘩両成敗」という
公儀の御政道(大義)を求めるもので、主君の仇討はその異議申し
立ての証しのはずだった。
吉良上野介への敵討ちを果たすことや御家の復興は「結果」でしか
ないはずだった。
「結果」の如何を問わず、命を懸け、「さむらいの道」を貫くのが、
葉隠の武士道だった。
後年、映画監督となり、大東亜戦争の特攻ドキュメンタリーを製作
したとき、思い出したのがこの葉隠のエピソードである。
特攻隊員たち、とりわけレイテ決戦後の沖縄戦を戦って散華された
特攻隊員たちは、自らの特攻で戦争を勝利に導けるなど、ほとんど
考えていなかった。
ミッドウェー海戦以来、帝国陸海軍は熟練のパイロットをほとんど
失い、開戦当時には1機の零戦で5機のグラマンと戦えると豪語した
が、レイテ沖海戦では1対1の同等の戦力、沖縄戦のころに至っては、
10機の零戦に1機のグラマンなどと、航空戦力比が完全に逆転してい
た。
米軍機の出撃は「七面鳥撃ち」とまで言われていた。
そのころの日本人パイロットたちは、訓練期間もわずかで、空中戦
を戦える技量など自分たちにないことも、戦況の不利も知っていた。
極言すれば、圧倒的な物量と兵力に対するには、もはや特攻しかな
かったのだ。
それでも特攻隊員たちは、分厚い敵の弾幕を果敢に突破し、特攻機
12機に1機の割合で、敵艦に中破、大破、撃沈などの戦果を挙げ続け
ていた。
特攻隊員たちは、戦果が確実に挙がるから、戦争に勝てるかもしれ
ないから、特攻を志願したのではなかった。
彼らは「結果」を求めたり、「結果」を期待して特攻出撃をしたの
ではなかった。
彼らは勝ち負けや戦果より、「やらねばならぬ」から、止むに止ま
れぬ思いで特攻したのだ。
大義に殉ずるという言葉が最もあてはまるのは、そういう理由だ。
それは葉隠の精神と見事に重なっている。
山本常朝の葉隠の精神は、「特攻精神」だったと言ってもいい。
「特攻」の提唱者だった大西瀧次郎中将は、この一見無駄死のごと
き「特攻」を繰り返し続けた理由を、副官・門司親徳氏に示唆して
いた。
私は門司氏からそれを直接聞いた。
理由は「死ぬための特攻」だった。
祖国日本のために、自らの命を捧げる青年たちが、かくもおびただ
しく存在することを敵側に示し、止むことなき特攻(死)によって、
日本の不退転の決意と覚悟を示し本土上陸を目指す敵側の戦意を挫
き、戦争を和平に導くのだというのである。
これについてさまざまな意見はあろうが、少なくとも米軍側は、も
し、日本本土上陸作戦が行われれば、100万人以上の米軍犠牲者が
出るだろうと予測していた。
特攻、硫黄島、沖縄と続く日本の軍民一体となったすさまじい戦い
ぶりは、戦争を唯物論的な勝ち負けで考える連合国軍には、「クレ
ージー」としか考えられず、底知れぬ恐怖を抱かせ、気を狂わせる
米軍兵士も続出した。
<特攻隊は「自分が日本だ」と信じた>
それにしても、なぜ、支那軍や連合国側には、「特攻」という戦い
ぶりがなく、わが帝国陸海軍にだけ誕生したのか。
一体、戦争における連合国側とわれわれとの対戦争観の違いは何だ
ったのか。
一言でいえば、日本人と欧米人との間には、「死」についての思い、
死生観の根本的な違いがあるからだ。
「葉隠」の「死ぬる事」に感じたのもそれだった。
桜の花に例えてみるとわかりやすいと思う。
散る桜 残る桜も散る桜
畔の草 召し出だされて桜かな
いずれも特攻隊員の遺された句である。
本居宣長も有名な和歌を遺している。
敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花 本居宣長
わが国の「国の花」の桜は、遠い昔から、日本人の「いのち」や
「魂」「心」として例えられて来た。
ここに本質的な欧米との差が表れている。
連合国側の兵士にとって、愛国心と戦争参加は、その国の国民と
しての国防の義務と責任であり、個人対国家という一種の社会契
約論的本質が中心にあった。
西部劇でいえば、自分の畑や牧場を身体を張って守る農民やカウ
ボーイという関係である。
ところが、日本国民には国に対する社会契約的な関係意識がない。
西欧近代主義的な自我意識(私)がなかったからだ。
日本人にとっての個は、全体の一部だった。
自らを国の有機的な一部分として、つまり、桜の木を日本とすれ
ば、そこに咲いた花として自分を考えるのだ。
桜の花は散っても桜木は残り、また、翌年、美しい花を咲かせる。
特攻を志願した日本人は、桜の花びらのように、「自分が日本だ」
と信じていた。
戦いに敗れ自分が花として散ったとしても、天皇陛下を中心とす
る日本(桜木)が存続すれば、大きな命(国)は滅びない。
そのように信じ、子孫たちが桜の花として特攻精神を引き継ぎ、
日本という古木に再び咲いてくれると信じ、出撃して行ったので
ある。
以前にも書いたが、散華した特攻隊員たちは、「私」という近代
的自我を捨て、「日本」または「日本精神」そのものになり切っ
て出撃していった。
だから、漫画家小林よしのり氏の「特攻は究極のやせ我慢だ」と
いった見方は間違っており、連合国側の「クレージーだ」という
見方とまったく同じものである。
ますらおの かなしきいのち つみかさね
つみかさねまもる やまとしまねを 三井甲之
「海ゆかば」と同様、私たちの祖国日本は、祖先の命を積み重ね
積み重ねして、築き上げ、守られて来た国である。
いい悪いではない。
それが厳然とした事実であり、また、それがわが国の歴史と伝統
なのだ。
私はそういう思いをずっと抱いて来た。
それは一種のほの明るい諦観にも似ていた。
今、私たちは「かなしきいのち」の積み重ねの先頭にあり、国の
守りを問われて生きている。
無常の風に吹かれながら、にもかかわらず、この危機の時代にあ
る明るさを見出している。
それは一体何なのか。
「私は日本である」という国民意識の自覚であり、その自負と
誇りである。
葉隠に散りとどまれる花のみぞ
しのびし人にあふここちする 西行
散りとどまった花(桜)も、いずれは散る桜である。
にもかかわらず、生きている間は、いのちいっぱい、そのすべて
を賭けて、持ちこたえ、生きる花の姿こそ、武士道の心である。
そういう国に私たちは生まれた。
だから、私はそういう国のように、そういう国人になりたいと願
うのである。
<日本軍の強さの源は「涙」>
長々と葉隠や特攻について書いたのは、最近起きた事件、大阪桜
宮高校バスケットボール部の顧問による体罰と生徒の自殺、柔道
女子日本代表選手ら15人の体罰告発を考えていたからだ。
特に柔道の問題は、私が若いころ、柔道に打ち込んだ時期があっ
たので、他人事に思えなかった。
金メダルを目指す柔道選手とコーチ、監督たちの姿と、「葉隠」
が批判していた赤穂浪士の討ち入りが、ふと重なったのである。
これらの事件は、戦前まであった武道(武士道)が、戦後スポー
ツへと変容しながら本質まで変わってしまった終着点だと感じさ
せられた。
ニュースに接した時、思い出した歌があった。
軍歌「戦友」である。
ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
祖国から遠く離れ、かけがえのない戦友を失ったことを慟哭する
歌で、帝国陸海軍の将兵や国民の間で歌い継がれて来た。
「戦友」は、外国人からは悲しい反戦歌と間違えられ、陸軍の東
條大将は、内容が厭戦的で「女々しい」として、最終的に陸軍は
将兵たちに歌うことを禁止した。
鉄血宰相と言われたドイツのビスマルク流の武断的「荒ぶる魂」
の軍隊を理想と考えたらしい。
しかし、その考えを真っ向から否定する文芸評論家がいた。
54歳で頸動脈を自刃し果てた村上一郎である。
村上はその著書『浪漫者の魂魄』において、軍歌「戦友」の歌詞
にある戦友の死について泣き悲しむその日本兵の「涙」こそ、日
本兵が世界最強だった理由だと指摘した。
村上は陸軍が「戦友」を歌うことを禁じたことで、日本軍を弱体
化させたと痛烈に批判している。
私も同感である。
東條大将はまことに清廉愛国尊皇の立派な将軍だったが、残念な
がら「大和心」の本質を理解しておられなかったと思われる。
大友家持のつくった「海ゆかば」の歌「海ゆかば水漬く屍 山行
かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」も、軍歌
「戦友」に近い心情で歌われている。
戦争や大災害が生みだす夥しい死と生のドラマ、人の世の生み出
す喜びや悲しみ、まるで、桜の大木の枝に咲いた桜花のように、
時の大きな流れが生み出す「運命」の風に吹かれながら、泣いて、
笑って、歌いながら、命の営みの行方を黙々と受け入れていく姿
こそ、本来の日本人の姿だったのである。
大事な命が失われても、そこには戦友との友情があり、家族があ
り、家族のような祖国日本(天皇陛下)という桜の大木があった。
「海ゆかば」の歌は、皇室尊崇だけを歌ったのではない。
古来の日本人にとって、この歌は文字通りの「現実」であったの
だ。
そういえば、古事記の須佐之男命(スサノオノミコト)は、荒ぶる
魂の典型的存在でありながら、大いに泣く情の男でもあった。
『言志』編集長 水島 総
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」は、『葉隠』(山本常朝
著)の有名な言葉で、武士道の真髄を示すと言われて来た。
武士は死を厭わず、常に死ぬ覚悟で物事に打ち込むことだとの意味
と解釈されているが、学生時代、初めて「葉隠」を読んだ時、この
「死ぬ事」の意味が、現代人のわれわれとは何か違うと感じていた。
特に「赤穂義士」討ち入りについての批判に、鮮烈な印象を受けた。
常朝は、長期間綿密に計画され、実行された討ち入りなど武士道に
あるまじき所業と断じている。
武士ならば、主君切腹の翌日、即座に吉良邸に討ち入り、全員斬り
死にするのが本物の武士道だというのである。
確かに、赤穂浪士たちの討ち入りの理由は、「喧嘩両成敗」という
公儀の御政道(大義)を求めるもので、主君の仇討はその異議申し
立ての証しのはずだった。
吉良上野介への敵討ちを果たすことや御家の復興は「結果」でしか
ないはずだった。
「結果」の如何を問わず、命を懸け、「さむらいの道」を貫くのが、
葉隠の武士道だった。
後年、映画監督となり、大東亜戦争の特攻ドキュメンタリーを製作
したとき、思い出したのがこの葉隠のエピソードである。
特攻隊員たち、とりわけレイテ決戦後の沖縄戦を戦って散華された
特攻隊員たちは、自らの特攻で戦争を勝利に導けるなど、ほとんど
考えていなかった。
ミッドウェー海戦以来、帝国陸海軍は熟練のパイロットをほとんど
失い、開戦当時には1機の零戦で5機のグラマンと戦えると豪語した
が、レイテ沖海戦では1対1の同等の戦力、沖縄戦のころに至っては、
10機の零戦に1機のグラマンなどと、航空戦力比が完全に逆転してい
た。
米軍機の出撃は「七面鳥撃ち」とまで言われていた。
そのころの日本人パイロットたちは、訓練期間もわずかで、空中戦
を戦える技量など自分たちにないことも、戦況の不利も知っていた。
極言すれば、圧倒的な物量と兵力に対するには、もはや特攻しかな
かったのだ。
それでも特攻隊員たちは、分厚い敵の弾幕を果敢に突破し、特攻機
12機に1機の割合で、敵艦に中破、大破、撃沈などの戦果を挙げ続け
ていた。
特攻隊員たちは、戦果が確実に挙がるから、戦争に勝てるかもしれ
ないから、特攻を志願したのではなかった。
彼らは「結果」を求めたり、「結果」を期待して特攻出撃をしたの
ではなかった。
彼らは勝ち負けや戦果より、「やらねばならぬ」から、止むに止ま
れぬ思いで特攻したのだ。
大義に殉ずるという言葉が最もあてはまるのは、そういう理由だ。
それは葉隠の精神と見事に重なっている。
山本常朝の葉隠の精神は、「特攻精神」だったと言ってもいい。
「特攻」の提唱者だった大西瀧次郎中将は、この一見無駄死のごと
き「特攻」を繰り返し続けた理由を、副官・門司親徳氏に示唆して
いた。
私は門司氏からそれを直接聞いた。
理由は「死ぬための特攻」だった。
祖国日本のために、自らの命を捧げる青年たちが、かくもおびただ
しく存在することを敵側に示し、止むことなき特攻(死)によって、
日本の不退転の決意と覚悟を示し本土上陸を目指す敵側の戦意を挫
き、戦争を和平に導くのだというのである。
これについてさまざまな意見はあろうが、少なくとも米軍側は、も
し、日本本土上陸作戦が行われれば、100万人以上の米軍犠牲者が
出るだろうと予測していた。
特攻、硫黄島、沖縄と続く日本の軍民一体となったすさまじい戦い
ぶりは、戦争を唯物論的な勝ち負けで考える連合国軍には、「クレ
ージー」としか考えられず、底知れぬ恐怖を抱かせ、気を狂わせる
米軍兵士も続出した。
<特攻隊は「自分が日本だ」と信じた>
それにしても、なぜ、支那軍や連合国側には、「特攻」という戦い
ぶりがなく、わが帝国陸海軍にだけ誕生したのか。
一体、戦争における連合国側とわれわれとの対戦争観の違いは何だ
ったのか。
一言でいえば、日本人と欧米人との間には、「死」についての思い、
死生観の根本的な違いがあるからだ。
「葉隠」の「死ぬる事」に感じたのもそれだった。
桜の花に例えてみるとわかりやすいと思う。
散る桜 残る桜も散る桜
畔の草 召し出だされて桜かな
いずれも特攻隊員の遺された句である。
本居宣長も有名な和歌を遺している。
敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花 本居宣長
わが国の「国の花」の桜は、遠い昔から、日本人の「いのち」や
「魂」「心」として例えられて来た。
ここに本質的な欧米との差が表れている。
連合国側の兵士にとって、愛国心と戦争参加は、その国の国民と
しての国防の義務と責任であり、個人対国家という一種の社会契
約論的本質が中心にあった。
西部劇でいえば、自分の畑や牧場を身体を張って守る農民やカウ
ボーイという関係である。
ところが、日本国民には国に対する社会契約的な関係意識がない。
西欧近代主義的な自我意識(私)がなかったからだ。
日本人にとっての個は、全体の一部だった。
自らを国の有機的な一部分として、つまり、桜の木を日本とすれ
ば、そこに咲いた花として自分を考えるのだ。
桜の花は散っても桜木は残り、また、翌年、美しい花を咲かせる。
特攻を志願した日本人は、桜の花びらのように、「自分が日本だ」
と信じていた。
戦いに敗れ自分が花として散ったとしても、天皇陛下を中心とす
る日本(桜木)が存続すれば、大きな命(国)は滅びない。
そのように信じ、子孫たちが桜の花として特攻精神を引き継ぎ、
日本という古木に再び咲いてくれると信じ、出撃して行ったので
ある。
以前にも書いたが、散華した特攻隊員たちは、「私」という近代
的自我を捨て、「日本」または「日本精神」そのものになり切っ
て出撃していった。
だから、漫画家小林よしのり氏の「特攻は究極のやせ我慢だ」と
いった見方は間違っており、連合国側の「クレージーだ」という
見方とまったく同じものである。
ますらおの かなしきいのち つみかさね
つみかさねまもる やまとしまねを 三井甲之
「海ゆかば」と同様、私たちの祖国日本は、祖先の命を積み重ね
積み重ねして、築き上げ、守られて来た国である。
いい悪いではない。
それが厳然とした事実であり、また、それがわが国の歴史と伝統
なのだ。
私はそういう思いをずっと抱いて来た。
それは一種のほの明るい諦観にも似ていた。
今、私たちは「かなしきいのち」の積み重ねの先頭にあり、国の
守りを問われて生きている。
無常の風に吹かれながら、にもかかわらず、この危機の時代にあ
る明るさを見出している。
それは一体何なのか。
「私は日本である」という国民意識の自覚であり、その自負と
誇りである。
葉隠に散りとどまれる花のみぞ
しのびし人にあふここちする 西行
散りとどまった花(桜)も、いずれは散る桜である。
にもかかわらず、生きている間は、いのちいっぱい、そのすべて
を賭けて、持ちこたえ、生きる花の姿こそ、武士道の心である。
そういう国に私たちは生まれた。
だから、私はそういう国のように、そういう国人になりたいと願
うのである。
<日本軍の強さの源は「涙」>
長々と葉隠や特攻について書いたのは、最近起きた事件、大阪桜
宮高校バスケットボール部の顧問による体罰と生徒の自殺、柔道
女子日本代表選手ら15人の体罰告発を考えていたからだ。
特に柔道の問題は、私が若いころ、柔道に打ち込んだ時期があっ
たので、他人事に思えなかった。
金メダルを目指す柔道選手とコーチ、監督たちの姿と、「葉隠」
が批判していた赤穂浪士の討ち入りが、ふと重なったのである。
これらの事件は、戦前まであった武道(武士道)が、戦後スポー
ツへと変容しながら本質まで変わってしまった終着点だと感じさ
せられた。
ニュースに接した時、思い出した歌があった。
軍歌「戦友」である。
ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
祖国から遠く離れ、かけがえのない戦友を失ったことを慟哭する
歌で、帝国陸海軍の将兵や国民の間で歌い継がれて来た。
「戦友」は、外国人からは悲しい反戦歌と間違えられ、陸軍の東
條大将は、内容が厭戦的で「女々しい」として、最終的に陸軍は
将兵たちに歌うことを禁止した。
鉄血宰相と言われたドイツのビスマルク流の武断的「荒ぶる魂」
の軍隊を理想と考えたらしい。
しかし、その考えを真っ向から否定する文芸評論家がいた。
54歳で頸動脈を自刃し果てた村上一郎である。
村上はその著書『浪漫者の魂魄』において、軍歌「戦友」の歌詞
にある戦友の死について泣き悲しむその日本兵の「涙」こそ、日
本兵が世界最強だった理由だと指摘した。
村上は陸軍が「戦友」を歌うことを禁じたことで、日本軍を弱体
化させたと痛烈に批判している。
私も同感である。
東條大将はまことに清廉愛国尊皇の立派な将軍だったが、残念な
がら「大和心」の本質を理解しておられなかったと思われる。
大友家持のつくった「海ゆかば」の歌「海ゆかば水漬く屍 山行
かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」も、軍歌
「戦友」に近い心情で歌われている。
戦争や大災害が生みだす夥しい死と生のドラマ、人の世の生み出
す喜びや悲しみ、まるで、桜の大木の枝に咲いた桜花のように、
時の大きな流れが生み出す「運命」の風に吹かれながら、泣いて、
笑って、歌いながら、命の営みの行方を黙々と受け入れていく姿
こそ、本来の日本人の姿だったのである。
大事な命が失われても、そこには戦友との友情があり、家族があ
り、家族のような祖国日本(天皇陛下)という桜の大木があった。
「海ゆかば」の歌は、皇室尊崇だけを歌ったのではない。
古来の日本人にとって、この歌は文字通りの「現実」であったの
だ。
そういえば、古事記の須佐之男命(スサノオノミコト)は、荒ぶる
魂の典型的存在でありながら、大いに泣く情の男でもあった。